だれのことも刺したくない
昨日の朝に公開したnoteを下書きに戻した。
公開していたのはわずか1時間ほどの間だったけどスキ、コメントくれたみなさんありがとうございます。
ざっくりと説明すると、トイレトレーニングのことについてのnoteだったのだけど、焦ったり不安になったりしないでね、というようなことを書きたかった。
けれど公開してから、「一生懸命トイレトレーニングと向き合って、できた喜びを我が子と分かち合い、子育ての中に達成を感じたりしている人たちに水をさすようなことになってないかな」と胸がざわざわしてしまった。
少し前に、なかなか進まないトイレトレーニングに焦りを感じているツイートがどこからか流れてきて、大丈夫!オムツ絶対にいつか取れるし難しく考えないでね!!!とそのツイートを抱きしめたくなったのが書いた動機だった。けれど、それによって反対側にいる誰かをシラケさせてしまうような書き方になっているのでは、と公開してからちょっと不安になった。
コメントをいち早くくれたyoko.*さん、ありがとうございました。とっても嬉しかったです。すき。
ここのところまわりのみんながなんだか怒っている。
幼稚園の対応に、まわりの保護者に、ニュースに、腹を立てている。
みんな言っていることはただしいし、ごもっともなのだけど、私にはどうしても「うんそうだね、そのとおりだね」と言うことができない。
だってその正論は必ず誰かを刺している。
私を刺してもいないその人を、例え彼らが見ていないところでも刺すことはできないな、と思ってしまう。
みんなの怒りを受けて、いつも曖昧に頷いているだけの私はきっと頼りなくうつっているのだろうな。
正論で誰かを悪者に仕立てあげて、刺すことで落としどころを見つけるのはなんだか悪趣味に思えてしまうのだ。
くだんの虐待のニュースもそうだ。
テレビをみた人たちがみんな憤って鼻息荒く怒っている。
学校が!児相が!市教委が!親が!しまいにはなんであの子は逃げなかったのか、と言う人までいて驚いた。
このニュースはほんとうに痛ましくてかなしくて、苦しい。
けれどやっぱり私は誰も刺すことができない。
みんなそれぞれ頑張っていて、生きていて、事情があって、いろんな思いがあって、それぞれそうするしかできないなにかがあったのだと思ってしまう。
確かにあの父親は絶対に許せないし、被害にあった少女の未来が絶たれてしまったことはかなしすぎるほどかなしい。
けれどひとはどこかで歯車を間違えてしまったとき、それを軌道修正するのは簡単なことではないと思っている。
他人が入り込むすきを与えず、狂った歯車を正常だと思い続けて回し続けるのはきっと苦しかったことだろう。
そして、そんな思いを抱えている人がきっとまだまだどこかにいて、彼らに向けるべきは正論で刺すことじゃないはずだ。
テレビに向けて刺しているその正論という刃はまだ見ぬ誰かを刺している。それは誰を救うこともできないし世の中をよくするものでもない。
話がそれてしまったけれど、たかがオムツ、されどオムツ、渦中の人間には重大ミッションで、大きな責任を感じていたりもする。
私が誰かに寄り添うことで刺されたと感じる人がもしいるのなら、やっぱりそれはかなしいから、もう少しきちんと全方位にやさしいと思えるものが書けたら、そのときはまた公開しますね。
また読みにきてくれたらそれでもう。