自己紹介2: 研究者人生の萌芽
前回は大学卒業までについて要所要所出来事を思い出しながら書きまとめたので、今回は今の職業に直結している大学院時代の苦闘ぶりについて紹介させていただこうと思う。
大学院期〜雪に埋もれた20代
学部の研究室では気象学を諦め、修士課程から学び直せるところを選んだ結果、試される大地の大学院へ進学。
最初の半年は講義が主体で気象学・海洋物理学などの学部時代に少し齧った程度の分野を基礎から学び、漠然とではあるがこういった研究がしたいと考えられるようになってくる。
半年後に研究室配属を決める際、第一希望の研究室はまたもや希望者が定員越えをしてしまうが、ここではテコでも動かぬ断固たる決意を見せ無事希望通りの研究室へ。この頃から消去法という少し後向きな方法とは少し距離を置く。
指導教官の助教授は当時で30代前半と、次世代の日本における気候科学を第一線で牽引するであろう研究者であったことはつゆ程にも知らず、後々大いに迷惑をかけることになる。
自分の興味に沿って与えられた研究道具はこれまでも見たことも聞いたこともなければ嗅いだこともない"大気海洋結合モデル"。
端的に言えば、大気・海洋の動きをシミュレーションするもので設定をいろいろ変えて実験することで気候システムの各過程を見ることができるという先代の科学者たちによる積年の研鑽が余すところなく詰め込まれたもの。
実験の方法や膨大なプログラム群の解読・実行に毎日すすり泣きながらも、何とか修士論文を完成させる。
そのまま同大学院・同研究室の博士課程に進学する。
博士課程からは自主性が求められ、研究主題も自ら決定することが望まれる。修士課程で太平洋のことを取り扱ったので博士課程では大西洋に目を向けてみようと考えていたが、指導教官との議論に恐れおののくあまり、主体的に行動することが全くできなかった。あまりにも彼の知識・経験・頭の回転力など研究に関する全てのものが桁違いであり、自分の考えなど意味がないと勝手に思い込んでいたのが主な原因であろう。
最初の1年は修士課程の内容を投稿論文にまで仕上げる試みで何とか凌げたが、2年目から歯車が狂い始める。
指導教官にこういうのやってみたらどうかとやってはみるが、結果が思わしくなくを何度か繰り返し、自分は一体何がやりたいのか完全に見失い、他分野への転向まで考え始める。過去に忘れてきたはずの消去法に懐かしさを覚える。
ただ結局それは苦しい現実からのあてのない逃避行でしかなく、生産性のない日々を過ごす。
2年目の終わり頃に着手し始めた研究にようやく一筋の光を見出し、博士論文の大枠がようやく固まりだす。しかし3年で学位取得という芽はこの辺りから摘まれ始める。
3年目の大半は進み出した研究のさらなる解析に時間をかける。そんな時に別の助教授から3ヶ月間ハワイ大学へ行ってみない?とまたとない海外経験の機会を得る。その頃には次の研究を開始しており、その研究を向こうの研究者と膨らませてみようということになる。
非常にいい経験になったと同時に自分の英語力のなさを寝ながらでも自覚できるほど。
ハワイから褐色に変化した肌とともに帰国し、当然のように4年目が始まる。ちなみにこの時修士課程に進学してきた今の妻と出会うことになる。
ハワイで進めた研究を帰国してからも進めようとするが徐々に雲行きが怪しくなってくる。結果が思わしくない。
何とか解析・議論を試みるが指導教官を納得させるまでには至らず。
5年目はもうないと考えていたので、中途退学し就職することも視野に入れ就職活動をしてみるがそんな中途半端な考え・消去法では何もうまくいかず、腹をくくる。
これでダメならと行った実験でようやくまとまりそうな結果が得られ、両ふくらはぎが痙攣、両肘亜脱臼という満身創痍の状態で何とか4年半の博士課程という長い道のりを完走する。
次回へ続く。
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