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#3 都市の成立と公共空間

皆さんご存じの通り,木庭先生の業績の中では,「法(占有)」の探求は,三部作の一番最後に位置付けられています.

これまで2回ほど,「占有」について扱いましたが,先行するトピックとしては,「政治の成立」「デモクラシーの基盤」に関する議論があります.

「政治の成立」に関わる論点は,多岐にわたります.ごく簡単に概要をつかむためには,『誰のために法は生まれた』(朝日出版社,2018年)の「種明かしのためのミニレクチャー」(p.290以下)が一番手軽だと思います.

また『新版ローマ法案内』(勁草書房,2017年)第1章は,凝縮はされていますが,簡潔に要点をまとめられています.『政治の成立』(東京大学出版会,2007年)で描かれたロジック(素材にあたるホメロス等の長大な分析は略されていますが)が,おおむねカバーされていると思います.

さらに最近では,『人文主義の系譜』(法政大学出版局,2021年)も出ています.実は,まだ読めていませんが,同書の「I 政治的・法的観念体系成立の諸前提」を読めば,「政治の成立」について,最新の理解を得ることができるかもしれません.

なので,『人文主義の系譜』での問題意識は触れられていないと思いますが,今日は「政治の成立」における「都市」(公共空間)の問題について論じてみたいと思います.

最判14年1月22日 総合計画許可処分訴訟

『笑うケースメソッドⅡ 現代日本公法の基礎を問う』(勁草書房,2017年.「公法ケースメソッド」)では,「公共空間」についていくつかの事案を取り上げています.

そのうちの一つ,事件名はタイトルの通りですが,地上22階建てのタワーを有するオフィスビル(最高110.25m)などの建築目的のために出された総合設計許可(建築基準法59条の2 第1 項)について,周辺地域に居住していたり,建物を所有する者たちが,取消訴訟を提起した,というものです.

相手方(被告)は,設計許可を出したり,建築確認を行った東京都と東京都建築主事ですが,関係する土地,建物は,もともと千代田生命保険相互会社(現在は経営破綻)のもので,問題となっているオフィスビルは,恵比寿プライムスクエアです.広尾のおしゃれなオフィスビルですね(https://office.tokyu-land.co.jp/bldg/ebisu_prime/).

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周辺の建物所有者らは,①プライバシーを保護される権利、②良好な住環境を享受する権利、③風害を受けない利益、等を主張しましたが,最高裁まで争われ,原告適格(「裁判所へ民事訴訟または行政事件訴訟を提起する,つまり原告となる資格」コトバンク)は認められましたが,請求は受け入れられませんでした(訴え却下,または請求棄却).

今日は判決の中身については,直接は取り上げません.本判決をめぐって,木庭先生が行っている「都市」を巡る理解について,取り扱うのが主眼です.

「公共空間の領域展開」

実は,「公法ケースメソッド」の論証(第8章「公共空間の領域展開」p.217~)はなかなか複雑です.

法の問題といえば,占有なのですが,行政が相手方になっている,都市計画が問題となっているためか,都市(と領域)の性格について,検討しています.

それを補助線としながら,問題となっている占有の性質を見極め,原告に占有があるか,またその侵害はあるか,という点を見ていくことになります.

すぐさま占有に飛びつかず,問題となっている「空間」の性質を探る.争われているのが,行政ないし「政治的決定」でもあるので,保障される占有の質にも影響を与えるためと思われます.

私人間の土地や建物を巡る,比較的単純な占有の事件とは異なり,その背景を射程に入れてアプローチする姿勢がうかがわれます.

では,何が問題になっているのでしょうか.

「都市とは何か」

「公法ケースメソッド」は,ゼミ生と老教授の対話で,話が進められます.

ゼミ生からは,まず東京における「都市」の見極めが難しい,ということが述べられます.「ずっとノッペラ棒に建物が広がって,区切りも形もランドマークもな(い)」と.

老教授もそのことを認めつつ,ギリシャ・ローマの都市概念が機軸を成すとしつつも,「「都市とは何か」について,一義的な答えはなくとも,深く考えていない限り都市計画を素材とする公法上の訴訟を審理することはできません」(p.220)といいます.

「一義的な答えはな」いかも,という点は,一義性にこだわる老教授の言葉としては,要注意です.

当てはめが難しいのか,意味内容のレベルで一義性がないのか.

用語の一般的な意味では,渋谷,広尾界隈は,確かに「都市」でしょう.「都会」のほうがぴったりかもしれませんが.

しかし,ここでは,ギリシャ・ローマの都市概念が問題となっています.その典型的,本来的な特徴は何だったでしょうか.

「都市と領域の二元構造(は)政治の存立と連帯の関係にある(中略).人間の活動はすべて具体的な空間の上の展開されるリソースを巡るéchangeを,これと全く異なる性質の活動が抑圧することに懸かっていた.後者(政治)もまた具体的な空間において行わなければならないとすると,échangeが展開される通常の空間と政治の空間は一義的に区分されなければならない.通常の空間,領域に対して政治の空間,土地の空間が概念される.それは定義上échangeを行いえない空間である(『新版ローマ法案内』p.12).」

上記の通り,「都市」は,政治の成立と密接な関係にあります.それ踏まえると,広尾は「都市」なのでしょうか.

現代的意義と変容の可能性

広尾は「恵比寿プライムスクエア」以外にも数多くの商業ビル,オフィスビルがあり,経済活動が行われています.

仮に上記引用の「échange」を単純に「交換」ととらえると,経済的な交換(経済活動)が行われており,都市というのは相応しくないようにも思われます.

普通の意味でも,「政治の空間」とは言いにくいと思います.政治の空間,といえば,永田町,あるいは霞が関がぴったりです

ここでは,メルクマールとなっている「échange」が問題となります.

「échange」とは,「集団間の物・サーヴィス・言語のやりとりが,1対1の対価性を少なくとも意識させず体系的に展開され(全体的給付),集団間のsegmentation維持に寄与するばかりか,しばしば集団区分ないし編成を形成し直す役割を果たす」とされています(『新版ローマ法案内』p.8 脚注7)).

「経済的に合理的な」「交換」とは混同してはならないともされており,単純な経済活動のことではありません.

典型的には,贈与がそれにあたるとされているとおり,「échange」とは,相互依存(réciprocité)をもたらし,集団を発生させるような,不透明な利益交換を言います.

それは「お歳暮」のような習慣であったり,政治家や企業間の献金がぴったりするように思われます.それは確かに,不透明な対価関係や依存関係をもたらすような気もします.

親戚から送られてくる「お歳暮」は恐怖でしかありません.不明瞭な絡み合った関係性を感じさせます.恩義を感じてしまい,お返しに頭を悩ますこととなります.また,賄賂は論外としても,政治家同士のポストのやり取り,これは「échange」といって間違いないと思います.

しかしそう考えると,「都市」「領域」とは,地理的な概念なのか,という疑問もわいてきます.古代ギリシャでは,確かに境目を置く,地理的な概念だったと思います.

古代ギリシャの「石畳」のように,都会はアスファルトに覆われており,それ自体,何かリソースを生み出さない点で共通しているようにも思われますが,経済活動がこれだけ多様化した現代では,「石畳」を単純に「アスファルト」に置き換えることできるのでしょうか.

とはいえ,(出自や用語から言っても)「都市」のコンセプトを地理的・空間的な概念として維持するというのが,おそらく木庭先生のスタンスと思われます.

ただ,老教授自らが,「「都市とは何か」について,一義的な答えはなくとも」と言ったのも,空間的に截然と「ここから」「ここまで」を区別できるのか,そのためにも,行われている活動の特徴を指す,非空間的な要素も勘案する必要があるのではないか,という問題を意識していたからのように思います.

市民的街区-都市内の分節

もちろん,その点は,意識していたというだけでなく,議論もされているといった方が,公平かもしれません.

ギリシャ悲劇に造詣のあるというゼミ生(南田さん)に,ローマ共和革命の最高政務官のエピソードをひきながら,都市内の住居が,他の住居(街区)を威圧してはならない,と言わせています.

その議論を受けた別のゼミ生に,「なるほど」「政治的中心の外側に市民的街区が都市内に分節する」ものなんだと,言わせています.「小ブルジョワジー」つまり「経済的階層」が「独自に市民的な社交や文化の交流点としての広場を持つ」場として観念されているのです.

都市内において,本来的な都市(政治的中心)の外側に,市民的街区を分節(区別)して観念する.広尾は,「都市」そのものというよりも,そのような「市民的街区」である,と.

さらには,「永田町」(政治の中心)ではなく,「山の手」に目を向けて,織物に例えれば,繊維組織(≒市民社会)を成すと結論づけられています.

古代ギリシャ・ローマを参照しつつ,ここでやや異なる層を堆積させようとしているのは,「ブルジョワジー」や「市民社会」という言葉から言っても,明らかでしょう.

ギリシャ・ローマの都市概念を素材としつつ,新たな含意を引き出すこと自体は,当然許されるし,必要なことだと思います.

ただ,結論としては,判例が「都市計画」を問題としていることに,少し議論が引きずられている気がします.

占有保障系?

上記のような議論は,上でも示唆したように,法的側面にも影響を与えています.つまり,問題となる占有の議論に,影響を与えています.

本件での占有侵害とは何か,なかなか苦心の議論となっています.ここでは,「公共空間が適切にこちらに向かって伸びてきている」ということが,侵害されている.つまり,「個別の占有が占有を侵害したのではなく,他ならぬ占有保障系が,占有保障障害を引き起こした」とされています(『公法ケースメソッド』p.234).

しかし,侵害の中身は複雑そうです.残念ながら引用文献は確認していませんが(『公法ケースメソッド』p.234脚注10),自己の占有に関わらないが,占有を保障するシステム自体が破壊された,そうしたことを問題とするようです.

また,それを訴える資格も,「公共空間の設計(占有保障系)が」「物的に,みんなに一様に作用している」ことから,「炭鉱のカナリア」のように,拡張される.

そして,「デモクラシーの問題意識」から「不透明である可能性」があれば,「本案に入って吟味するだけは吟味したほうがよい」という,やや取って付けたような結論が導かれています.

原告適格,あるいは占有侵害(「法律上の利益」)に関するこのような議論には,占有特有の明晰さはなく,やや無理をして占有につなげようとしている,という印象を受けます.

「神殿」はどこに?

さらに,上で述べた「市民的街区」という用語を(他のゼミ生から)引き出した南田さんは,別の個所で,都市の特徴として,「たとえば神殿が多元的に建っている.相互の分節を創り出すためにどちらでもない空間が張り巡らされ,さらにこれと政治的空間が区分される」(p.221)といいます.

南田さんは,老教授が言いたいことをいう役回りが多いですが,しかし今回は,あまり目立たたせず,さらりと触れた,という印象を受けます.

『政治の成立』(東大出版会,2006年)でも,古代ギリシャにおける都市の成立と神殿に関係について一章を割いているように(「Ⅳ 政治的パラデイクマ 2 都市中心の形成と宗教」),古代ギリシャにおける都市の成立にとって,神殿は欠かすことができません.

「領域を創出するための軍事作戦と軍事組織形成の担い手,個々のimperium保持者…は個人的に戦利品を一旦自分の支配下に置き,工事を遂行するのであるが,建設するのは神殿であった.これを神々に奉献した(中略).考古学的痕跡ないし観光資源としてのギリシャ・ローマの看板が神殿であるのは偶然ではない.ギリシャ・ローマの都市は神殿を公共空間創設の柱とするのである.」(『新版ローマ法案内』p.30)
神殿は神々の個人的な住居であった.彼らを地上に引き下ろし,人間のように空間を占拠させる.逆に言えば限定される.(中略)なおかつ,神々の住居は,その内部に人々を囲い込むことが決してないように造られる.(中略)こうして,誰でもアクセスできる(信者や特定の神を頂く集団を概念しない)単なる住居たる神々の家は複数林立し,しかも近接性を保つ.(中略)人々の諸集団はクロスするようにしてアクセスしあうこととなり,クロスする空間,ヴァーチャルな意味における十字路において,まさに公共空間が出来上がるのである(同上).

それでは,ギリシャにおいて特定の形態と運営,そして役割を果たした「神殿」は,現代社会の公共空間維持のためにも,必要なものなのでしょうか.

政治システムという装置を動かすための原資(果実)は,今では神殿への戦利品の「贈与」ではなく,税金によって賄われることになったのかもしれません.

また,すべての集団がアクセスすることができる空間というものも,他の何かが代替しているのかもしれません.

残念ながら木庭先生は,古代ギリシャにおいて公共空間成立に果たした「神殿」の役割について,ただの一事情であるのか,前提条件であるのかは,明言していません.

ただ,この点を貫徹しなければ,ギリシャ・ローマ的な意味での(木庭先生が考える「真の」)公共空間ではないのではないか,「疑似」公共空間について論じているだけではないのか,という疑問が残ります.

この点は,ささいなように見えて,実は木庭先生の議論の中では,「アキレス腱」であることは覚えておく必要があると思います.

第1回「占有でなければ保護されない?」の最後でも少し触れたとおり,古代ギリシャでは,神々という概念を巧妙に使い,政治が宗教を完全に抑圧した状態にありました.そのために上のような特殊な意味の「神殿」が必須の役割を果たします.

木庭先生にとって,その点は極めて微妙な,しかしアクチュアルな問題として,未解決であることが自覚されています(『誰のために法は生まれた』第五回最終章).ギリシャ・ローマ流を貫徹しようとすれば,現代の信教の自由と衝突します.

たとえ「政治システムと関連づけられた神々以外の神々を観念することは,それが個人的なものであれば全く自由である」(『新版ローマ法案内』p.33)と「宥める」ように付言しても,本音としては,政治システムが宗教を「接収してしまう」(『誰のために法は生まれた』p.384)ことを望んでいるのが見え隠れします.

古代ギリシャにおいて,公共空間成立のメルクマールである「神殿」を持たない「都市」.それが実現可能なのか否か,そして,古代ギリシャ・ローマの「公共」と近代的な意味での「公共」概念の距離.その点は,潜在化し,回避されたまま,持ち越されることとなります.

その点は改めて,取り上げたいと思います.

(追記)「都市」とは何か,という問いのみならず,都市に対抗する「領域」からみる観点が,概念を精査するためには必要なのだと思います.

仮に都市の外側に「市民的街区」を認めるとするとすると,今の日本において本来的な意味の「領域」が存在するのか,という疑問もわきます.地方都市は本質的に東京の「市民的街区」とどれほど異なるのでしょうか,そして,その向こうに広がる田舎の風景が,領域なのでしょうか.

「都市と領域」から,さらに「公共」など,重要な概念を導くことからも,今一度,古代ギリシャにおいて都市が成立した際の諸条件を(上で述べた特定の形態,機能を持つ「神殿」も含めて),見直す必要があると思います.

ネットでは「日本には都市がないから,政治がない」とか,「水道は公共のものである」など,結論はともかく,木庭先生の著作を最終論拠のように引用し,断言するツイートなどを見かけますが,「最終的権威の存在を認めるのは政治的パラデイクマに反する」と言われる木庭先生の本意ではないと思います.


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