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ヤンキーとセレブの日本史vol.17 江戸時代その2

江戸時代はよくも悪くも変わらない時代です。
それは、家康がずっと自分の子孫が権力を握れるように仕組みを作ったところから始まり、その仕組みは当初の目的を忘れ、決められたことを守る事自体が伝統となり、保守的に続くようになってきました。


ヤンキーにとっての江戸時代とは


江戸時代は、強烈な身分制がある時代です。
生まれついた身分に基づきつける仕事も決まります。少しの例外を除いて、基本的に実力で何かを掴み取るというのは難しいです。
反面、みんながまあなんとか食っていけるという時代でもあります。
これを安定ととるか、我慢と取るか。
 
平安時代に武士というヤンキー階層ができてから、ヤンキーたちは暴力を磨き、子分を作り自分の手でシマを広げて守ってきました。
しかし、江戸時代では勝手にシマは広げられない、自分の腕っぷしで子分も作れない。そんな中で実際にケンカで使うことはないスポーツ剣術を学ぶ。
生まれたときから所属する組もその中でのポジションもほぼ決まっていて、気にいらないからと出てくとかはできません。与えられた場所で親分に従う。それが武士のかっこいい生き様として刷り込まれています
暴力で飯を食っていないというのは現代のヤンキーとも同じですが、江戸時代はヤンキーとしての自由さはあまりない時代でした。
 
シマを守って食えるようにしてやるというのは、鎌倉幕府を開いた頼朝の親っさんと同じです。しかし、頼朝の親っさんがヤンキーたちにもとめたのは、軍事と警察と最低限のモラルくらいで、ある程度の自由さを認めていました。江戸幕府の組の仕組みは、本家が統治しやすいようにだいぶ細かいところまで口を出して、制度にしていることが違います。
農民も武士も言うことを聞いていれば食っていける。そこを外れれば生きていけない。そんな時代が260年続いたのです。ヤンキーは自分の組やその上の本家にしばられ、農民はムラにしばられます。昭和の終身雇用はこの気質を色濃く引き継いでおり、現代でもそれが残っている場所はまだたくさんありますが、日本人の気質がこうなったのは江戸時代の徳川家のせいでしょう。
 
若いうちはチームを作ってヤンキー活動をしていたりする武士もいたりします。大人になるとちゃんと就職して真面目に働くというのは今のヤンキーと同じでしょう。
武士というヤンキー魂は生涯現役だけど、実際には暴力に関係ない仕事に就くという今のヤンキーの形は江戸時代にできたのかもしれません
 
ということで、江戸時代は幕末になるまで社会がヤンキーに影響を与えてもヤンキーは社会に影響を与えない時代になっています。

家光の時代

ギリヤンキーの匂いがするのは三代目将軍家光までです。
そこから先は、普通に政治しています。江戸時代の武士の生き様は前回説明した武家諸法度や朱子学などを通じて名誉を重んじ質素倹約で文武に励むみたいな形で決められていました。どうみてもヤンキーらしくない生き様です。
 
 三代目将軍家光は将軍の力を高めようとしました
色々な組をお取り潰しにしたりして、徳川本家のすごさをみんなに見せつけます。
そして、参勤交代をきちんと制度化します。各地の組長は江戸の本家にパレードしながら来て、1年とか長い期間滞在させられます。ここで金を使って江戸の経済を回して、都会で贅沢を憶えて帰って地元でも金を使う。その結果、どこの組も財政が大変になります。本家としては地方の組の力を削ぐことにもなるので、反乱を予防する効果もあります。
でも、本家の言うことには逆らえないのでみんな粛々と江戸に通います。
暴走族の集会もパレードです。中には地元のヤクザに無理やりやらされるケースもあったようですが、大半はヤンキーとしての矜持に基づいた自由意志でやっています。人から言われてやるパレードはヤンキーらしくありません
 
加えて、家光は祖父の家康を神に祭り上げます。日光東照宮に家康を神として祀ることで、神の血を引く徳川家すげーという空気をつくっていきます。天皇家のやっていたことをパクリました。
日光東照宮はめっちゃ金をかけて豪華に作った族車のようなデザインをしています。
多くの人に権威・すごさを伝えるには派手さはとても大切なのでデザインはヤンキー的になるのは必然で合理的です。しかし、ヤンキー的な文化はここでおしまいです。
しかし、家康が作ろうとした江戸時代のヤンキー像は、統治する側に都合よくコントロールしやすいなんちゃってヤンキーです。
長い時間を経て代替わりが進み、家康に会ったことがない子孫や組員が継いでいく中で、裏の狙いは忘れられ、武家諸法度に書いてあること、家康や家光が決めたことを守ることが何よりも大切と変わっていくのです。
こうして武家政権といいながら、実態は全然ヤンキーらしくない徳川幕府の時代が続くようになるのです。
 

江戸時代の経済

米の普及

江戸時代には農業技術も発展して、米が全国で作られるようになります。そもそも稲は中国の南の方から来た植物なので、寒い日本ではそんなに生産性もよくなく、弥生時代に入ってきたものの、全国に普及したのは江戸時代です(といっても寒いところではまだそんなに取れず、石川が北限で、熊本が日本一の米どころという状態)。
まあ、農民は作ってもみかじめ(年貢)で持っていかれるんですが、それでも一生懸命働けばなんとか食べていけるという時代です。餓死するから他の村を襲うみたいな戦国時代のような状況ではなくなってきました。
 
ちなみに、農民もみかじめで半分もっていかれるのですが、何を基準にした半分かというと1700年頃に測った石高に基づいていたので、生産性があがるようになると農民の取り分は増えるようになってきます。
ただし、農民も自分で土地を持っている本百姓と、そいつらに土地を借りてみかじめを取られる水呑み百姓に分かれていて、本百姓の中も役職が別れているので、一部のやつらに富が集まる仕組みができています。農村の中でも身分が固定化されています。
 
ところで、鎌倉時代がつぶれた原因の一つに、土地の分割相続の問題がありました。鎌倉時代は兄弟姉妹みんなで親の土地を平等に割って相続していたので、世代が経つごとに土地が小さくなって食っていけなくなる問題がありました。
江戸時代は長男だけが相続することで、イエを守る形に変えます。そうすると食えない次男以下や嫁ぎ先のない女はどうなるかというと、職を求めて都会にいくようになるのです。江戸時代ですから、都会の勤め先もブラック企業ばかりですし、社会保障の仕組みもないのでたくさん死にます。イエに縛られない自由の代償は誰も助けてくれない、自分の力だけで生き延びなければいけない過酷な道です。

自由を得ても得られるものがない時代、みんな貧しくとも安定している立場を選び、出る杭は打たれるということがないように、同調圧力に従って生きていくようになるのです。

子分の力のコントロールをするための米重視政策

江戸時代は基本的に米が通貨のようなものです。小判とかの貴金属の貨幣もありますがそれは商業での流通であり、大半のど田舎の組では、農民から米を巻き上げて大阪で米を売って金にしていました。江戸日本経済の基本は米です。城に勤めるヤンキーたちも米で給料をもらいます。
税金と公務員の給料は米でやり取りされるのです。
幕府は米を経済の基本にしていたのですが、米は不作のときもあれば、豊作のときもある安定しないものです。そして、実際の社会は貨幣の流通が強まっていきます。江戸の町は参勤交代で全国の組長が子分を連れて滞在していますし、農業に関わらない町民もたくさんいます。
 
なんで不安定な米を基軸通貨にしていたかというと、幕府が子分どもの力をコントロールするためだと思われます。
各地の組長たちは、幕府からシマの統治を任されていますが、シマの大きさは幕府に決められています。そのシマの大きさは、石高という米の取れる量を単位にして決めます。必然的にシマの大きさと組の力は強い相関を持つことになります。
だから米がたくさんとれる大きいシマをもたせる組は田舎に置いて、パワーバランスをとっています。
各組の米が決められた通りに収穫されている限りは、組のしのぎの力も幕府の計画以上に強まることもありませんし、パワーバランスも崩れません。幕府が各地の組の力をコントロールしやすくするためには、シノギの力をコントロールするこが必要で、そのために米を基準とした経済は都合がよかったのです。
商売をシノギにさせてしまうと、そのバランスが崩れてしまいかねません。そうならないよう江戸や大阪などの重要な都市は幕府の直轄地にしてはあります。
 
現代の経済学を知っていれば、通貨が十分に流通していなければ経済は活性化しないし、それにより景気が悪くなることもわかります。この時代には、経済学はないので幕府は財政が悪くなれば、よく分からずに、倹約令や小判の金の含有量を変えたりします。本来であれば経済を安定させるためには、米を中心とした経済ではなく、貨幣量をコントロールして、貨幣を中心とした経済にしなければなりません。この時代のヤンキーにそんなことわかるはずがありません。
しかし、経済理論を知らなくとも、最も優先しなければならないことはヤンキーの本能としてわかります。最優先なことは経済の安定ではなく、子分の力をコントロールして徳川本家が統治しやすくすることです。

各地の組の力は本家がコントロールする。それができるようにシノギの基本は幕府が決めた量から大きく変動しない米の生産量にする。これ以上に大切なことはないのです。
ということで、江戸時代は幕府がどうにもできない飢饉や豊作などで価格が変動しやすい米を基本としたことで、経済が米に影響を受けやすい社会になります。しかし、それをコントロールする経済学の理論もなかったので、幕府は色々と苦慮をすることになるのです。

さらに言えば、強烈な身分の固定も実力で勝ち上がるやつが体制を破壊しないようにするためです。経済成長や社会の発展なんかよりも安定的に徳川本家が国を治められるようにする方が大切です。

米を基本とした経済政策の歴史(ヤンキーに関係ないので読み飛ばし推奨)

この先は本当にヤンキーに関係がない話が続いてマジで面白くないし、ヤンキーの研究にとっては大した意味ももたないので読み飛ばしてください。それでも通史だから一応触れておきます。
 
江戸の初期100年くらいはとても景気が良かったです。
江戸という新しい町を作るのに公共事業もたくさんあって、町の開発で人口も増えていきます。基本的に金を使う人がたくさんいれば景気はよくなるものです。加えて、参勤交代で各地の組長たちが江戸にパレードしながら来て、長期滞在で金を落としていきます。
景気がよくなると贅沢品を買いたくなります。海外から絹とか砂糖とか朝鮮人参とかいいものを買うのですが、その代金として金や銀を払うので、国内から金や銀が流出していきます。
銭を必要としているのに、金が足りなくなると小判を増やすことができません。銭が流れていないと商売も回らないので、景気が悪くなります。
それで景気が悪くなると、金で作る小判に混ぜもの(銀)をして、小判を増やします。みんな金の含有量が多い小判の方が価値があると知ってるので、お店の人も混ぜものの多い小判はあまり受け取りたくなくなります。お店は混ぜもの小判で売ってほしければ多めに払えと言うようになります。それで物価が上がるので経済が悪くなって、それでまた小判を作り直すということを繰り返します。
江戸時代には40~50年おきに財政がやばくなって三大改革というものが出てきますが、そのほとんどは米と小判の混ぜ物をいじる経済の改革です。
米を基本にしているので、米の出来不出来で景気の動向が大きく変化して、幕府の財政が悪くなったときに、大きな手を打ちます。
しかし、その内容は倹約をすることが最初に来ます。みんなが倹約をして買い物をしなくなったら社会の中でカネが回らなくなるので景気はもっと悪くなるのですが、カネがないから贅沢はやめようという精神論で動きます。
結局最後は小判に混ぜものをして流通量を増やすことで、景気を回復させるのです。

覚えやすく雑に言うと、江戸時代250年のうち、最初の100年は景気が良くて、後の150年は米で経済を回すのが厳しくなり、50年ごとに大改革をするという流れです。

米を中心とした経済の混乱

悪名高い生類憐れみの令(生きものをぶっ殺すの禁止令)を出した5代目綱吉(1680年 - 1709年)のときに幕府の財政が悪くなってきて、小判に混ぜものをして流通させたら景気が悪くなりました。
さらに1700年代前半に、江戸の大火事、噴火、地震などで復興にお金が必要になり、幕府の財政が悪化していきます。
そこで、新井白石というおっさんが出てきて、経済改革を進めます。
まずは、金銀が国外に流出しないように、外国から買っていた絹、砂糖、朝鮮人参などを国産化して流出を止めます。
そこまではよかったんですが、混ぜ物をした小判が経済を混乱させているからと、混ぜ物を減らした小判を作ったら、両方が流通してますます経済が混乱します。でも、経済学も発達してない中で結構頑張ったと思います。
 

享保の改革(1716年~1740年)

それを立て直そうとしたのが8代目の吉宗です。
吉宗の改革を享保の改革と言います。
吉宗の経済政策は米を増やして、幕府の収入を増やし、節約して手元にたくさん残るようにすることを経済政策の基本にしました。カネには頼りません、米が大事です。
吉宗は、倹約令を出してみんなに節約しろ、贅沢品は買うなというので、ますます景気が冷え込みます。そして、これまで、各地の組からは上納金をとっていなかったのですが、やっぱヤンキーとしては上納金はやんなきゃいけねーよなということで、参勤交代を軽くしてやるかわりに米を上納させ財政を安定化させようとします(でも参勤交代をやめると本家がナメられるので、9年でもとに戻りましたが)。
新しい田を開発させて米は増えました。あわせてみかじめの量を変えます。これまでのみかじめは収穫量に応じた量だったのですが、この改革で豊作不作に関わらず一定の割合にしました。
しかし豊作の年は米の価格も下がるので、米で給料をもらっている公務員武士たちはたまったものではありません。改革に取り組んでいる途中の1732年に享保の飢饉という大飢饉がやってきて農民がたくさん餓死し、一揆などの暴動が起きました。
仕方なく、吉宗は米で経済を回すことを諦め、混ぜもの多め小判を作り、古い混ぜもの少ない小判に割増金をつけて交換することで、経済を安定させるようになりました。
いよいよ米だけでは経済を支えられず、貨幣の重要性が高まっていくのです。

田沼意次の時代(1779年~1786年)

次の時代の田沼意次は農民から米をいくらカツアゲしても価格が変動してきついので、商売を奨励して商人からもみかじめをとるようになりました
景気が良くなるとみんな欲しい物が買えるようになり、浮世絵など様々な町民文化が発展していきます。解体新書という医学書、古事記などの研究などの学問も発展しました。
田沼は営業の独占権を作ったり、東で流通していた金と西で流通していた銀の交換比率を統一して、商人たちがシノギでガンガン稼げるようにして、税金をチューチューする仕組みを作りました。そういうことしてると賄賂とかはびこって、ドロドロしてくるんですが。
そんな中、長野と群馬の間にある浅間山が噴火します。火山灰が空を覆い、作物が育たなくなり、天明の飢饉と言われる大飢饉が起きます。
西日本には米がたくさんあったのですが、汚いシノギに慣れた商人たちはチャンスとばかりに米を買い占めて値上がりを狙います。その結果、暴動が起きて江戸の町が荒れ、田沼は失脚しました。
でも田沼が失脚したくらいで江戸幕府はラッキーでした。浅間山の噴火の灰はヨーロッパにも届き、不作で食べるものに困ったフランスの農民は最後には王様をぶっ殺してフランス革命までしてしまったのですから。

寛政の改革(1787年~1793年)

田沼が賄賂まみれの汚ねー政治ばかりしてたというので、次に登板したのが松平定信というやつです。こういうことがあると、江戸時代の武士はすぐに質素倹約と文武両道とかいう武士らしさを取り戻そうと言い出します
武士の地位を回復させるということで、武士が商人から5年以上前に借りてた借金は帳消し、5年以内のものも金利を低くしろよという命令を出します(そんな無茶なことしたら商人は二度と武士に金貸さなくなって、後で武士が泣くことになるのですが)。
他にも贅沢品は禁止、江戸に住んでる町民も田舎に返して田畑を耕せと言います。
みんな我慢して慎ましやかに暮せばどうにかなるという精神論だけで社会を回そうとしていて、田沼よりもよっぽどたちが悪いです。
今日我慢しても明日の方が良くなる保証なんてないんです。江戸初期に作られたヤンキー武士を管理しやすくするために作られた武家諸法度のなんちゃって武士道を信じて、そこに書いてある通りにしたら社会が回るはずがないのです。
松平定信はみんなに嫌われて追い出されて、寛政の改革は終わります。
その後押さえつけられていた欲望が爆発して、化政文化という派手な文化のブーム
が始まります。出版もたくさん行われ、喜多川歌麿や葛飾北斎、歌川広重などの有名な絵師も世に出てきます。相撲や芝居なども盛んになります。
 
定信がいなくなったあとの幕府は11代将軍家斉が40人の側室と遊んでばかりで何もしなかったどころか、増えすぎた子どもたちの世話でガンガン無駄遣いをしていました。
各地の組は本家が頼りにならないので、自分で特産品を作ったりシノギを工夫するようになるのでした。
ヤンキーの親分は、子分に恐れられているから親分でいられるのです。子分にナメられるようになってきたというのは崩壊の最初の一歩です。
 
その頃、天保の飢饉と言われるガチの飢饉が起きます。悪徳商人はチャンスとばかりに米を買い占めて値上げをするので、餓死者がたくさん出て、農民が一揆などの打ち壊しが起きまくります。大阪では大塩平八郎という役人が反乱をします。
みんな幕府の言うことを聞かないような状態になってきます

天保の改革 (1841~1843年)

そんな中、老中という幕府の偉いポジションになった水野忠邦というやつが改革を始めます。三大改革の最後天保の改革です。
やってることはいつもの質素倹約と都市の住民を田舎に行かせて米の増産、混ぜもの小判をつくることです。当然うまく行かずに農民からも商人からも武士からもみんなに嫌われて水野は失脚します。
 
三大改革はどれも幕府の財政を立て直すためにやられたものですが、幕府の財政が米を中心とした仕組みである以上、商業軽視・農業重視のものばかりで、時代の流れにあっておらず、仕組みとして国を変えるようなことはありませんでした。
この根幹は初期の徳川幕府が各組の力をコントロールしやすいように経済の中心を米としたことにあると考えられます。そして、長く続きすぎたせいで、当初の目的を忘れて、最初に決められたことを守ろうと保守化しつづけたことが良くも悪くも変わらず、ヤンキーらしくない時代を続けさせたのでしょう。


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