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「地獄」も言葉でできている

「地獄は一定」という『歎異抄』に出てくる有名な言葉がある。解釈の仕方は様々だが、五木寛之は自著『大河の一滴』でこのように説いた。
 「救いがたい愚かな自己。欲望と執着を断つことのできぬ自分。その怪物のような妄執にさいなまれつつ生きるいま現在の日々。それを、地獄」
生きる人すべて、皆、地獄にいるというのだ。

「生き地獄」という言葉があるが、それに近いニュアンスを感じる。
人間という生き物は、数秒の幸福感を得るために、ほとんどすべての時間を耐えて、耐えて、耐え忍ぶ。どん底に落ちたとしても、いつ巡り合うかわからない幸福感を求めて、信じて、耐え抜こうとする。

地獄を恐れ、日々必死に生きているにも関わらず、既に地獄にいるとは滑稽この上ない。

しかし、それも考え方次第だ。

「人」は物事・事象をきれいに演出することに長けているのかもしれない。「感動」「努力」「夢」「希望」「勝利」「愛」「浄土」と様々な言葉を創り、言葉で世界を浄化してきた。

翻って「死」は抽象化され、日々の生活の中で、触れられぬよう葬られてきた。多くの人が、日常の中で、「死」という言葉に向き合うことなく、忙殺されている現状を見ると、人は「死」という決定的事実をも、創作したいくつかの言葉で、覆い隠すことに成功したのではないか。人はペテン師で、最高のエンターテイナーだ。

サラリーマンは死んだ魚の目をしている。死期が近いのかもしれない。24歳の僕は、電車に揺られながら目に映る景色をそう形容することがある。「地獄は一定」。そんな言葉を胸に仕舞い込んで、「希望」という言葉をロッカーから引っ張り出し、デスクに向き合う僕は真っ当な人だ。

capici


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