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明日死んでもいい≠時間が止まればいい

やっぱり書いておこうと思う。書かないと忘れるから。
例え今、何も感じてないとしても、「感じていなかった」自分を残しておかないと。これは未来の自分の為の備忘録。


1月くらいに胸に異変を感じて、2月に検査をした。次の病院の紹介状を書いてもらい、すぐに再検査となって、正確な結果を3月に聞いた。

ステージ2aの左乳癌。悪性の疑いがある為部分切除の手術が必要。

これを書いている私は、既にその手術を終えて術後3日目には退院し、今日は術後4日目の、ごく通常モードの私。
この時々波のようにやって来ては思い出させる治りきってない傷跡の痛みさえなければ、もう運転も出来るし、今日は行きたかった隣の隣の町のカフェにも行ってきた。いきなりそんなに動いて怒られそうだけど、とってもいいカフェだったし、カフェのスピーカーは素晴らしく私を音で包んでくれたし、いいボーカリストにも出会えたから、これは呼ばれたんだ、って思っている。ご褒美と、発破かけ的な。そろそろスタンダード勉強しろよと言われている気がして、帰り道にマスターが教えてくれたその彼女の音を聞きながら帰ったけど、天性と環境はこれほどまでに時代をまたげるのかと感心させられるばかりで、私が「スタンダード!!」ってなる原動力には逆にならなかった。
彼女のせいではない、これは私の問題だ。

去年から自分を整えようと、ずっと体づくりをしていた。お陰でコントロールできないくらい丈夫な体になって、この体でどう歌うのがいいのかを模索しっぱなしだった。筋肉は本当に裏切らない。あと肺活量も。それも筋力のなせる業か。
パワーが付いたお陰で、繊細さに欠けた歌になったのが今の悩み。「出るぜー!!」ってなっちゃうんだ、「届けー!」って。
投げたくないんです、置きに行きたいの、言葉も音も。ぐぐーっと声という腕を伸ばしたくなるのです。もういい大人だし、すっと美しく知らぬ間に置いてゆく方法も選ばないとだなと毎回反省している。歌は奥が深いな、今更ながら。知ってる、ずっと、知ってる。

最近のライブは、屋外でもお店でもホールでも、懐かしい顔がたくさん集まってくれる傾向があって、勿論私の為に集まってるわけじゃないんだけど、私からしたら「私明日死ぬのかな」って思うくらいうれしい皆に会えることが多くて、なんだかずっとそんな感覚を持っていたのです。

明日死んでもいいな、それくらい今幸せだ。時間が止まればいいのに。
そんな大きく矛盾した喜びの表現だけが頭に何度も出ていた。
ライブの度に。
みんながいて、私は歌ってる。
こんな幸せなことあるか。いや、ないのだ。

そんなライブたちがひと段落した頃、気になっていた胸の異変を診てもらいに病院へ行った。大いに疑わしい結果が出て、私は妙に納得した。
何故なら、そう思っていたから。妙なぼんやりした覚悟が既にあったから。落語の「死神」に出てくる、炎揺れるロウソクが人の数広がっている場面を思い浮かべて、目前の自分のロウソクの長さを想像したりした。

結果、私のロウソクはまだそんなに短くはなっていなかった。命までは取られない、死神で言うところの「まだ足元にいる」状態だった。手術室ではプリンセスプリンセスのMが流れている中横になり、麻酔がいきわたる時には欧陽菲菲のラヴイズオーバーが流れていた。私がもし目を次開けられなかったら、私が人生最後に聞いたのは珠玉の失恋ソング集になるんだな・・・と思ったこともしっかり覚えている。聞いていた通りの手順で私は目を覚まし、自力で呼吸もでき、酸素マスクが取れ、点滴が取れ、翌日には自分で歩けて、多分最短コースで退院した。あ、ご飯も美味しく頂いた。

テレビカードは使わなかった。本を読むかあとはずっと桃月庵白酒師匠の落語を音声だけで聞いていた。不思議と白酒師匠の明るい響きの声が心地よく、途切れずずっと聞いていた。落語の(話の中の)世界は優しい。人間が可愛く、いとおしい。耳からの情報で、頭の中の空間に物語が描かれてゆく。人物が現れ生き生きとそこに暮らしだす。往来と草履の立てる砂埃、それを照らす朝の光や、灯を消したら真っ暗闇の部屋に差し込む月の光まで、ありありと見えてくる私の柔軟な脳内劇場の有難さ。ここに没頭できる時間って、日々の中に本当にない。久々のその時間にどっぷりつかった。痛む腕肩を少しずつ上げたり回したりしながら、頭の中に飛び込んできてくれるみんなに励まされるようにベッドの上での時間を過ごした。白酒師匠、お陰様でした。師匠のまくらもとても好きです。

手術当日の夜が一番苦痛だった。横にしかなれない一日は、痛み止めは基本的に座薬となる。私は間の悪いことに手術前日に生理が来たものだから、その日はリハビリパンツ(履くタイプの大人のおむつ)を履いていた。それだってナプキンの交換をお願いするのが申し訳なくて(全身麻酔を使う手術の時タンポンはダメなのだそう)リハビリパンツを選んだのだけれど、その状態で「座薬なんですよ、明日になれば飲み薬飲めるんですけど」と言う看護師さんに座薬をお願いするのがなんとなく、いや結構、憚られた。
その夜は、ずっと横になっていることに因る背中や腰の痛みと、どんどん増す傷口とドレーンが入っている脇の痛みが増して、もうどうしていいか分からなかった。朝がとても遠く感じた。ゴロゴロはしてもいい、とは言われたけれど「そのゴロゴロが痛いんだよっ!」ってぶつける当てもなく。一晩中うーうー言ってたと思う。隣のベッドからはいびきが聞こえては消え聞こえては消えしていて「おうおう気持ちよさそうに寝てくれんじゃんよ」と丑三つ時にはやさぐれさえした。

朝が来た。痛いことに慣れてきた自分も一度は「この感じならまだいけるかも」と思いはしたものの、観念のナースコールをして「薬飲みます」と伝えた。平静を装っていたけど、心中は「今すぐお願いしますぅうぅっ」と涙ながらに懇願してた。薬はすごい。少しは楽になった。この少しが重要で、この少しが治まっただけで、うとうとに逆らうことなく朝寝昼寝で昨晩の寝不足解消を遂げられた。それからは痛くなったら飲めるように頓服にしてもらって、これは今も飲み続けている。薬は安心をカプセルにしたようなものだな。今はないと不安だ。

私が自分のがんを知ってから手術の日までの間に、昔の大事な友人の訃報が入った。彼は学生の時は一緒に音楽を作って、社会人になりたての頃はお付き合いをしていた人だった。色んな記憶の引き出しが開いてきて、自分の至らないところや成熟できていないところが、あの頃とちっとも変ってなくて、彼に叱られそうだなとずっと考えている。でも私が今もこうして歌い続けている事と、意気地なしのこの私が今回のがんと真っ向勝負していることは褒めてくれるだろうなと思っている。勝手に、ごめんね。

明日死んでもいい、って思ったことは嘘じゃない。そう思える瞬間があるって幸せだと思う。でも絶対明日死んだりしない。明日生きたら、そのまた明日も生きてみる、その繰り返しだ。だからどんなに幸せでも、逆に苦しくても時間は止まったりしない。「この時間が終らなければいいのに」そう思えたなら焼き付けるしかできないよ。ね、私。焼き付けていくんだよ。それが出来ないなら歌にしろよ。そういうことだ。

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