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いぬの朝はやさしさの時間

おばあちゃんに引っ張られがちなミニチュアダックスくんに毎朝会う。

2人は時間通りだろうから、私の出社の時差で会う場所が変わる。でもどこで見かけてもおばあちゃんが「行くよ」って引っ張っている。そしていぬくんは頑なに動こうとしない。短く毛の長い足で地面をグッと踏みしめて動かないのだ。

おばあちゃんが「おはようございます」と声をかけてくれるので私たちは顔見知りではある。どこの誰かは知らないけれど朝この道で会うお互いの朝の登場人物だ。私がいぬくんを見ていると彼女はこう言った

「前にここで会ってた人がいるのよ、もういないんだけどね」

だからなのね、いぬくん、君がある程度の時間必ずねばるのは。

さて別の日、私はその日気が付くと二人とは対岸側にいた。向こうを歩く二人をいつものようにとらえたが、その日は少し様子が違った。

一羽のカラスがいぬくんと同じ速さで歩いてついてくるのだ。それはまるでおばあちゃんが一匹と一羽を散歩させているような絵だ。

いや、よく見るとおばあちゃんは若干困惑していた。そりゃそうだ漆黒の羽根のカラスが偉そうに(羽根を畳んでるとそう見える)てくてくとついてくるのだもの、不吉な縁起の悪いような気持にもなる。

でもこちらから見る限りカラスは優しかった。いぬくんが歩みを止めれば止まったし、歩き出したとしてもその距離を縮めることはしない。ある程度の距離を保って友人を見守っているかのようだった。

待てよ、もしかしたらこのカラス「今までは電線の上から見てたけど、最近ちょっと心配で地上に降りてきたのか?」「仲良くなりたくて降りてきたとか?」と私の妄想は「距離を保っていられなくなって降りてきたカラス」に役者を変えた。だとすれば、一歩一歩歩くいぬくんの歩みは少し感動的だ。

来ない友人を待ついぬくんと、それを案ずるカラス、いつもと変わらない人間たち。私はいぬくんを取り巻く物語の登場人物の一人だ。毎日会えることが自分の当り前を支えている。

よく考えれば犬だけじゃない、毎日すれ違う人、車、登校中の小学生、今にも辞めそうな店、新しく出来た何屋か分からない店の看板など、自分の暮らしは日々に築かれた当たり前を土台に、毎日同じではない出来事が重ねられて日々が彩られている。自分しか経験しないこともあれば、その場にいた皆が共有する出来事もある。

そういう意味で、だれもがひとりでだれもがひとりではない。でも「一人」と言う言葉は「孤独」とも取られてネガティブな意味に思われがちだ。でも、だ。私は来ない友だちを待っているいぬくんの朝をさびしいとは思えないのだ。と言うよりは、友達を思う朝があるいぬくんをさびしいとは誰も言えないと思う。君の朝はすてきだね、そう思うし思える人でいたい。

君が君であることがすばらしい、君に会えたことがうれしい、そう受け止めてくれる場が必要だ。いぬくんに待つことを赦してくれるおばあちゃんがあるように、そんないぬくんに会ってうれしい私があるように、見守るカラスが思わずついてきちゃうように。

最近頭が全部「ひとりを考える」方に向く、勿論ポジティブな方角にだけれども。もっと考えよう、もっともっとだ。

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