哲学は開かれた言語ゲーム
毎年行っている学会で、「現象学による心理学の哲学的基礎」という公演を聞いた。講師は竹田青嗣先生。哲学は前から興味があったけど、正直、私の頭では理解が追いつかず、どんな講義をとっても、どこかで迷子になっていた。学会で聞いた哲学の公演は今まで聞いてきたどの哲学の講義よりも明瞭で分かりやすかった。(それでも、理解しきれないところもあったし、聞いている間は頭がフル回転だった。)忘れないように備忘録を残しておきたい。
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●宗教と哲学はどう違う?
その違いが明確のは「この世界は何からできているのか」という問いに対してのアプローチ。
宗教は、「世界とは」を物語によって説明した。それは、例えばキリスト教なら、神が世界を創った、という物語。つまり、宗教のテーブルの中心には、「真理を知る人(教祖)」がいる。テーブルの上には教祖の言葉(物語)があり、その言葉が全てだし、変えてはいけないものである。
一方で、哲学は、物語によって世界を説明するのではなく、概念によって世界を説明しようとした。例えば、哲学の祖である、タレスは「万物の原理(キーワード)は水である」と説いた。すなわち、世界の最小単位は水である、と。しかし、その弟子は、「いやいや、空気でしょ」と言ったり、「いや、無限なものだ」と言ったり。いかに上手に、いかに多くの人々が納得するような説明するか、が重要である。つまり、哲学とは、世界を説明する開かれた言語ゲームである。だから、民族、文化の限界を超えて、探究され、展開していく。
●哲学の意義
哲学の意義は、信念対立を克服し、普遍的学問として展開する可能性を持っていること。
講義の中で、先生は「結果と原因の反転」についてお話しされていた。私たちはリンゴを見たら、「リンゴだ」と考える。つまり、リンゴがリンゴであること(原因)が、私たちに「リンゴだ」と考えさせる(結果)と、思っている。でも、フッサールは現象学的還元を唱え、その原因と結果を反転させることを説いた。ただ、リンゴについて、原因と結果を反転させる必要はない。世界像、世界観を考えるときに、反転させる必要があるのだ。私たちは世界を見て、「世界は~である」と考える。その世界観は、結果であり、原因ではない。ここからは私の解釈が入るけど、世界観には「唯一無二の客観的な真実」は一つもない。人々はなぜ宗教を信じるのか、というと、小さいころから「そんなことしたら神様に怒られるよ」と言われるから。唯一無二の世界観などなく、すべての人の世界観(結果)は、人の経験(原因)によって生まれている。
それでも、やっぱり、人は自分たちの経験の中でしか生きられないし、自分たちに見えているもの、考えていることが「真実」と思いやすい。それでは、哲学ではいかに「信念対立」を克服するか。
どちらの信念が正しいか、ということを議論すると、結果は悲惨だ。つまり、最終的には戦争になる、ということ。じゃあ、人々は信仰をもってはいけない、ということなのかというとそうではない。哲学では、個々人の内的な信仰は個人に属すると考える。その中で、「市民」というメタレベルで考え、信念対立が起こったときに、共通理解をみんなで作り上げていくのが哲学の学問的意義である。設定された問いに対して、みんなで、言葉を紡いでいく。自分の経験を内省して、適切なキーワードを取り出し、他の人たちのキーワードと比較する。違いがあれば、その違いの本質をされに考察する。そして、違いの中からそれぞれが納得できる新しいキーワードを見出す。それを繰り返していくのが哲学である。
どういう言葉で概念や物事の本質を説明するとみんなが納得できるか。その終わりのない探究、言語ゲームが哲学だ、と教えてもらった(と解釈している)。その言語ゲームのテーブルには、さまざまな価値感を持った、多様な人が集まり、ゲームが展開していく。
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先生が、まだ誰も論破できていない本質の説明をした人がいる、というお話をされていたことが印象的だった。どんどん展開していく、終わりなき言語ゲームだけど、一つだけ、展開していないテーブルがある。
それが、カントの「宇宙はどうやってできたか」ということに対する洞察。これまで、大きく分けると3つの説があった(①創造説(神が作った)②発生説(ビックバン)③恒在説(ずっとあった))カントは、「①~③はどれが正しいか決して決定できない」と言った。そのことは論証できる。これは物事の本質かもしれない、と思った。
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