見出し画像

差別と怒りと仏教と

1998年、作家Robin D. Hartが書いた「Anger toward Racism」という記事を読みました。

彼女が、アフリカン・アメリカンの女性として経験してきた差別、それに対する怒りについて、そして、仏教学や瞑想を通してその怒りとどう付き合ってきたかが書かれています。この記事がとても興味深く、いろいろと考えさせられたので、ざっくり訳して残しておきたいと思います。

両親からは、「学問で成功し、良い大学をでれば、将来よりよく生きていける可能性が高まる」と言われ育ってきた。そのためよく勉強し、優秀な成績で法科大学を卒業した。しかし、成功すればするほど、人種差別を経験することが増えていった。特に、優秀な大学に入ったとき。リベラルで優秀な人たちの集まりなはずなのに、どうして、とショックを受けた。そして、法律事務所で働き始めたとき。アフリカン・アメリカンは自分しかいなかった。そんな中で、秘書と間違えられ酷い扱いを受けたり、と、対等に扱われることはほとんどなかった。そして、法律事務所を去った。

その後は、自由気ままに過ごしながら傷を癒した。瞑想もした。そしてしばらくした後、晴れ晴れとした気持ちで神学を学びに大学に入学した。しかし、そこでもなお、人種差別にあった。スピリチュアリティーを大事にし、自分や他者とのハーモニーを重んじるはずの神学を勉強している人たちが、どうして、とここでもショックを受けた。特に、レイシストではない、と自認している人たちからのコメントはいつも同じだった。自分の中の差別を否定する人たちとは会話にもならなかった。

他者の認識を変えようと、一生懸命になっていた。そうすることで、よりよい人生を生きられる、と思っていたからだった。常に、周囲の人たち、自分の外にあるものを変えようとしていた。そして、それが、怒りのタネになった。あの人たちが邪魔をする。あの人たちがしてくれない。あの人たちが自分のチャンスを奪う。あの人たちがすべてをコントロールしている。私は何もコントロールできない。

仏教では、怒りは<欲、怒り、幻想>という、3つの火、または毒として表現される。そして、苦しみの原因となるのは欲である。多くのアフリカン・アメリカンはより高い社会的ステータスを得ることで、人種差別を緩和できると信じている。でも、これだけ努力しても、そうはならず、怒りと憤りを感じている。

頭では、「白人の人たちも苦悩しているのだ」と分かろうとしている。もし幸せで、平和だったら、人を傷つけようなどとは思わないだろう。でも、ひっきりなしに降ってくる雨は、石さえも削ってしまう。痛みの中で生きていくのはもうたくさんだ。

仏教では、怒りに屈することも、怒りを否定することもしてはならない、と言われる。瞑想の中でも、怒りに気づくことが大事だ。

Thich Nhat Hanhいわく、

怒りを感じている時は、自分自身を意識しないことが多いでしょう。相手が自分を怒らせているんだ、と考え、相手のいやなところについて考えを巡らせます。相手のことを考えれば考えるほど、相手に注目すればするほど、怒りは大きくなっていきます。相手の嫌なところ(不誠実さや冷酷さなど)は事実かもしれません。または、勘違いかもしれないし、誇張されているかもしれません。しかし、いずれにせよ、問題の根っこは、怒りそのものなのです。そして、自分自身に戻ってきて、何よりも最初に自分の中に起こっていることを見てみないといけません。原因だと思っている相手を見たり、相手の話を聞いたりすることは最善の策ではありません。火をつけた犯人は誰かを捜すのに時間を費やすのではなく、消防士のように、まずは消火作業からはじめることです。

私たちは、怒りのエネルギーを、エンパワーメントや愛のエネルギーに変えていかなければならない。

瞑想を始めても、長い間効果は感じられなかった。自分の人生は何も変わっていない。一つのことに注意を向けるのも難しく、いつも何か考え事をしていた。しかし、ある日、湖の傍を散歩しながら、自分の手の平に力が入っていることに気がついた。気がつかないうちに、拳を握り締めていた。おそらく、瞑想を通して、自分の身体の状態に注意を向けてきたから気づけたのだろう。小さな変化が起きた。この変化のために何ヶ月もかかった。だからこそ、マインドフルネスは鍛えていかなければならないものなのだ。即時的な効果はない。ただ、練習を重ねることで、身体の状態への気づき、感覚への気づき、考えへの気づき、そして最終的に物事の本質への気づきが生じる。

「無我」の境地に達したことのある人には出会ったことがない。でも、そこへと続く道のりをいくことはできるだろう。今は、ある状況で、怒りが出てきたとき、自分に「なんで怒ってるの?」などと質問をしていっている。そうしていくと、結局、その怒りにかける時間がもったいない、と感じるようになり、怒りは横においておくことができる。

自分の怒りは、過去の歴史や出来事にルーツがある。もし、それらがなければ、怒りの感覚の半分くらいは無くなるだろう。このことは、マインドフルネスの大事な側面に関連している。Ajahn Sumedhoは以下のように書いている。

昨日のことは記憶となる。明日のことは分からない。そして今のことは、知ることである。(Yesterday is a memory. Tomorrow is the unknown. Now is the knowing.)

私は、人種差別があったから、法律事務所で苦労をしてきた。でも、その10年後、人種差別があるから、まったく想像もしなかったが、こうして作家として今の瞬間、自分の好きなことをしている。誰も将来のことは予測できない。

今は「加害者」からは安全な距離をとり、自分の怒りを観察できる。痛みを伴うことなく彼らの輪の中にいられるような、自身の強さを感じられる時に、彼らとやりとりをする。今は、自分の身体や呼吸、自分の中の痛みに気づくための、仏教の実践の価値が分かる。ここからすべてが始まるのだから。




#怒り #仏教 #マインドフルネス #差別


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?