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人格整理(幼児期~学童期)

 これが私の初のブログの投稿になるが、1つの執筆期間がなあなあな感じに長くなってしまったのでようやくの初投稿だ。
友人が別でBloggerというブログを開設したのでそれに便乗して私も開設はしたものの、結局こちら(note)に戻ってきてしまった。
正直この投稿も長く続けていくつもりも気力も無いため、気が向いたら自分の思想を整理する為の走り書きの用途として活用していく方針である。

よってここで書かれる文章に関しては主に私自身の事になる。


日々の生活の中で常に頭の中で邪念を巡らせる生活を送っているため、どうせならそれを可視化してみたい。誰かに見てほしい承認欲求もある。
今でしか感じる事しかできない気持ちをなかった事にしてはいけないという義務感もある。そんな生き方も書き方も下手くそな男の文章です。


今回は初回という事で私のプロフィールを簡単に書き連ねることとする。


0歳:新潟県の病院で生まれる

4歳~6歳:埼玉県内の幼稚園に通う

7歳~12歳:埼玉県内の小学校に通う

12歳~15歳:埼玉県内の中学校に通う

15歳~18歳:埼玉県内の公立高校に通う

18~21歳現在:埼玉県内にある私立大学に在籍中

ずっと埼玉で過ごしてきている男です(笑)

生い立ちについて簡単に記載させてもらったがここから幼少期からおぼろげながら憶えている範囲で書き連ねていこうと思う。


フェーズとしてはエリクソンの発達心理学の区分に準じて

「幼児期」「学童期」「青年期」「成人初期」に分けて記述していくことにする。


幼児期


最初に行っておくと幼児期の記憶は断片的なものでしかないため、実際と異なっていた可能性があり、且つ家族からの視点も混ざっていることをご容赦いただきたい。


 当時から私は非常に大人しい性格で他人と交流を進んでやっていこうという人間ではなかったと言わている。例えば歩道で一人でミニカーを転がしたり、自動販売機のペッドボトルの形状に興味を出していたりと一人で遊ぶことが多く、社交性の部分ではその当時は大分低かった方であるとされる。


更に何か活動をするにあたって当時から周りの協力を求めていたなと感じる。

それは行動に起こす際に生じる心配からくるものであったのか、純粋にみんなと遊びたかったのかは定かではないが、これは本来社交性の低い性格であるならば起こりえない行動のようにも思える。今思えばその当時から他人に依存する傾向があったのかもしれない。


しかし常に一人でいたわけではなく、園内では比較的他の園児と交流を持ちながら楽しく積極的に上手くやれていた方だと感じているので、結局は環境でいくらでも変わるのだなと思う。


年中になってから習い事として「水泳」をさせられることになるが、慣れるまでかなり時間がかかった。まず、水が怖い、級が設けられているスクールで15~1まであるが、15から抜け出すまでの期間がどれぐらいだったのか覚えていない。最終的に2級まで進めるまでにはなったが、順調にずっと楽しめていたものではなかった。



学童期


 ここの時期から私の性格の形成が確立されていったと感じるほどの大きな転換点だと感じる。


 小学校に入ってからは校庭で遊ぶ機会が多かった気がする。少なくともクラスで孤立していたという事はなかった。ただ、正確に難ありな場面をこの頃から見せるようになったと感じる。

1年生の記憶はほとんどないが2年生では担任はやたら芸術に力を入れている人であったと感じている。ある日の歯の愛護ポスターで会長賞を取った記憶は今でも鮮明に覚えている。そこから優良賞や佳作をちょくちょく取る機会が増え、自分の絵が展示されている作品展示会によく親に連れて行かれた。当時の感覚では作品展に連れていかれ来ることが面倒くさくて嫌々連れて行かされていた記憶があり、賞を取ることの凄さが良くわかっていなかった。何故なら、特に何も考えずに、思いついたものを書き殴っていただけだからである。今もそうだが行動を起こす際に特に吟味しないことは当時からすでに癖としてあったのだなと感じる。

3年生になり、ここで私の人間性が起因する事件が起こり、一種のターニングポイントな出来事が起こった。

「反抗期の到来」だ

今でもこの頃の私は協調性と自分勝手な行動を取っていたと自信を持って言えるほど良い行いをしていなかったと思う。

授業を聞かずに自由帳で遊ぶ、取っ組み合いの喧嘩

これだけでも大分酷いが、喧嘩に関しては負ける方が多かったし、真正面から向かう勇気も無かったので逃げ回ることが多かった。

落ち着くきっかけになったのは堪忍袋の緒が切れた担任から殴られて椅子の角に瞼をぶつけて流血した事件である。あそこで今まで自分が起こしてきた行動の洗礼を受けることになった。
担任におんぶされ、保健室に運ばれ、タクシーで病院に運ばれた。
痛みによる痛覚の麻痺と倦怠感に恐怖しながら数針縫う処置を受けた。

その後定期的に担任と校長が自宅を訪れ、謝罪と私の様子を見に来るようになった。その時母はどんな気持ちだったのだろうか…私に対する怒りだったのか、担任に対する怒りだったのか、悲しみだったのか、今更そんなことを聞くことなんてできないけど……

少なくとも、私は今までの自分の行動に対する先生への申し訳なさとここまでしなくてもいいじゃないかという怒りで何とも複雑な感情が混在していた。

普通なら不登校になってもいいような出来事なのに、処置受けた翌日には何事もなかったかのように登校していた。

しかし、確かにあの瞬間から今の私の性格に繋がるように、周囲の顔色を窺い、自己肯定力を低下させるような思考へと変化させるきっかけになったと考えている。

4年生になり、比較的落ち着いて授業を受けるようになったが相変わらず教師からは冷ややかな視線や言動を浴びせられていた記憶はある。3年の頃の私の問題行動を当時の担任も聞かされていただろうから無理もない。他人の顔色を窺ったり、クラスメイトから言われる言葉一つ一つに神経質になっていた時期だと感じている。特に一人の女子からは毎日のようにかなり刺々しい発言をされることがあり、つらかった。


5年生になると、今後の人生において親友と呼べる大切な人と出会う事になる。

彼とはほぼ毎日のように遊んだり、習い事先の施設が一緒だったりで同じ時を過ごす事が多かった。彼とは今でもドライブに行く仲であり、一生大切にしていきたい大事な人だ。
彼のおかげで昼休みに毎日ドッジボールで外に遊びに行くほど充実させることができたと感じている。
彼に出会うまでは私は生きた心地のしない生活を送っていたのではないかと思うほどつまらない人生を送っていた。

一人でゲーム・一人でパソコンで動画視聴・一人で完結する遊び

習い事で一緒になる人や学校先の同級生とは、その場で話はするだけでその場でのやり取りのみ

あの退屈な日々を惰性で過ごす毎日に当時の私は何を思っていたのだろうか。今では知る由もない。

6年生になって公文式で算数を習い始めた。

恥ずかしい話だが、この学年になるまでの間まともな暗算ができず、手で数えていたほど数字が弱かった。そこで危機感を感じた母親は、強制的に公文式で算数漬けの日々を送ることになった。

本当に母親には感謝している。実際に数か月で暗算、計算力を飛躍的に向上し、中学に上がるころにはその学年の単元から少し先取りをするぐらいのレベルまでに成長させることができた。

しかし、頭を使う作業というより体で覚えた印象がやはり強くそれらを応用させるという思考にまでは至らなかった点ではこの頃から自分は数弱だという事を無意識に自覚していたと思う。

その他の思い出は特に覚えていない。
変わらない日常を生きていただけだろう。


これが私の幼児期から学童期までの大まかな人生である。
読みにくく、つまらない文章ではあったが、ここまで時間を割いて読んでくれた人に感謝いたします。


それでは、、、


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