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”苦手意識”という”罪”

僕は大人になった今でも”さんすう”が苦手

キッカケは子供の頃に父から
「時計の読み方」
を教わったことだ

一見すると、”時計”と数字ってどう関係するんだ?
って思うだろう

父『なんでわからないんだ!』
僕「・・・」

1:30から40分進むと、2:10になることが理解できない
自分に父なりに一生懸命教えようとするけどわからない

父『わかるまで今日は続けるからな』
という父の言葉に時計を目をやると
”11:00ぐらい”だったことだけはぼんやりと覚えている
多分アレは昼の11:00ではなく23:00

普段は20時とかには就寝している自分にとって
”はじめてなのに一番うれしくない夜更かし”

結局僕が時計を読めるようになったのかすら覚えてない
ただ永遠と父から責め続けられた事、何度も何度も何度も

”時計の数字”を見ては考えて…を繰り返してた記憶

そう、僕は”時計が読めない”というトラウマの思い出から
”時計の数字”=”数字”そのものになんだか苦手意識が植えつけられてしまった

こういう子供の頃の思い出って”一生ものの苦手意識”を植え付けてくるから結構罪深い

自分には簡単に感じていても
相手にとっては何倍も何倍も苦手だったり
わからない!って感じたりするものはたくさんある

だから僕は誰かに何かを教えるときは

”わかるのが当たり前”
”理解しようとしてない”
”こっちはわかりやすく伝えているのに何故”

という感情が湧いたら
”こちらの教え方が間違っている”
という風に必ず考えるようにしている

それでも相手がわからないなら
”教える人”
そのものを変えることも躊躇なくする

教わろうとしている人に
”苦手意識”を
植え付けた時点で、”指導者”としては失格だ。

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