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太宰治 斜陽執筆の宿 西伊豆三津浜 安田屋旅館で時間旅行

いまはもう、宮様も華族もあったものではないけれども、しかし、どうせほろびるものなら、思い切って華麗にほろびたい。

太宰治 斜陽より

敗戦により没落した貴族の家庭。
「真の革命のためにはもっと美しい滅亡が必要なのだ」という儚くも気高い心情を、それぞれの滅びゆく姿から色鮮やかに描く。

斜陽は以前から好きな本ではあったのだが、そもそもこちらの宿を知るきっかけになったのは、ライトノベル「ビブリア古書堂の事件手帖」の実写映画を見てからだ。
太宰 治の「晩年」の稀覯本をめぐり繰り広げられる物語に出てくる人物が、小説を執筆する際に籠った、そして秘められた情熱が放たれた部屋。
私が生まれる半世紀以上も前に建てられた旅館ではあるが、どこかノスタルジーを感じさせるその空気感に惹かれて調べてみることにした。

陽が強すぎる。もう少々斜陽した時間を狙えば良かった。

西伊豆三津浜 安田屋旅館
創業は明治20年。
大正7年に木造二階建ての松棟を建築、昭和6年には木造二階建ての月棟を増築。
現在は両棟共に国の登録有形文化財として指定されているとのこと。

そしてこちらの宿には太宰 治が斜陽の第1章、第2章を執筆するにあたり約一ヶ月の間滞在した部屋があるとのこと。
その部屋が映画でも描かれた部屋らしい。

なかなか予約を取ることが出来ないという部屋とのことだが、幸運にもスムーズに取り付けることが出来た。
土肥桜が美しい季節に訪れることが出来たことも幸運と言える。

日本一の早咲きとも言われる土肥桜
重厚でありながら親しみを感じる玄関口。

チェックイン時間は14時。
西に傾きかけた太陽が美しく照らす。

目の前には三津の海が広がるのだが、常に海風にさらされているとは思えない程に劣化は少なく、歴史が積み上げられた美しい木造建築。

畳敷のラウンジに通され、お茶と温泉饅頭をいただきながらチェックイン手続きを済ませて、いよいよ部屋へと案内される。

重厚な木造の螺旋階段を上り二階へ。
欅の一枚板で出来ているとのことで、磨き込まれた素晴らしい艶を保っている。
そして踏みしめた際に不快な軋みは感じられず、贅沢な木造建築ならではの音が心地良い。

螺旋の内側は狭い。
なるべく大回りして外側を歩きたい。

階段を上り切るとそこには「月見草」と名付けられた部屋が正面に現れる。

部屋の前には「それ」を証明する木札が。
磨き込まれた広縁がぐるりと回る。
窓右側の山の間に富士山を望む部屋なのだが、当日は少々霞が掛かっていた。
部屋には幾人に読み込まれたであろうか、斜陽が置かれている。

この部屋だ。
映画で映し出された部屋。
そして太宰 治が斜陽を執筆した部屋。

燻されたような深い色味の梁や柱、天井。
磨き込まれた床板。
戸袋に収められた雨戸などは当時のままだろう。
ふすまは張り替えこそされてはいるだろうが、枠は当時のままのようにも見える。
海風を受けて和室を守る障子は、さすがに新しいものに交換されているが、造りは当時のままなのだろう。
驚くべきは広縁に置かれた灰皿。
こちらの部屋は喫煙可能なのだ。
私は禁煙はしているが、嫌煙家ではない。
貴重な登録有形文化財で、煙草が吸えてしまう。
もちろん火の取り扱いには十分注意頂きたいし、可能ならば喫煙を控えて頂いた方がよろしいかと思われる。
だが、文豪が過ごしたように、これまでこちらを訪れた人々と同じ時間を共有出来るようにというお宿の懐の深さよ。

床の間には斜陽の一節。

部屋で一息ついたら温泉だ。

画廊のような畳敷の通路。

左側に飾られた絵は購入することが出来るようだ。
通路右上の看板には「伊豆文庫」と書かれている。

伊豆文庫

看板下の窓の外に用意された雪駄を履き、中庭を通り向かう。
太宰 治についての資料や著書を始め、太宰と斜陽のモデルとなった当時の愛人、太田 静子さんとの娘である太田 治子さんとの交友の記録、様々な作家の古書が保管されている。
部屋への持ち帰りは不可だが、貴重な書物を手に取って読むことが出来る。

太宰治没後版
こじんまりした部屋で、古書の香りが漂う自分だけの書斎のような雰囲気を味わうことが出来る。

風呂はこちらの通路を挟んだ別棟にある。

温泉専用棟

海の目の前なのだが、塩泉ではなく伊豆の山々の恵みをたっぷり含有した柔らかな、肌触りの良い温泉。
ゆっくりと、のんびりと湯を楽しむことが出来るようにだろう、熱すぎることのない丁度良い湯温。

ちなみに日帰り入浴も12時〜14時と18時〜20時で枠を設けているらしい。
前半は宿泊客には関係無い時間だが、後半は夕食の間で解放されている。
夕食後に入浴をする際は上記時間内に行くと混雑している可能性がある。
私が20時前に行った際には、自転車旅の集団と一緒に入った。
気持ちの良い男達であった為、旅の良いエッセンスとなったが、のんびり静かに入浴したいという方は避けた方がよろしいかと思われる。

風呂を楽しんだら、部屋を堪能する。

広縁海側
広縁玄関側

窓枠は新しい物に変えられており、冷たい海風も気にならない。
戸袋裏から隙間風は入ってくるが、それは味として捉えるべきだろう。

広縁の柵の上面はこれまでこの部屋で時間を過ごした人々が、三津の海を眺める際に手を付いたのだろう。
職人が設えた角を残しつつ、緩やかな丸みを描いていた。

陽が隠れると更に旅情が高まる。
映画のワンシーンの再現を試みる。

持参した晩年を読みながら夕食までの時間を過ごす。

夕食は宿側で時間を指定してくれる。
私は18時から。

前菜
お造り
台の物は金目鯛
煮物は私の好物のかさご
洋皿のビーフシチューパイ

夕食は懐石で、画像は一部のみ掲載。
食べきれないような量ではなく、お造りはもちろん新鮮な魚を存分に味わえる。
煮魚も魚の風味をしっかり感じる上品な味わい、熱いものは熱々。
別注で伊勢海老のお造りをお願いしたかったのだが、当日は仕入れの関係で叶わなかった。
また次回には是非味わいたいものだ。

ちなみに私は旅館やホテルでは、一切テレビを点けずに過ごす。
いつからだろうか、そんな静かな時間を過ごすようになった。
夕食後は再び読書をし、身体が冷えてきたら温泉を浴びる。
そんな気ままな時間。

明日は早起きして朝風呂に入ろう。
そんなことを考えながらうとうととしつつ、そのまま深い眠りに落ちる。

布団から眺める風景

朝は6時から入浴可能。
私は浴衣を直して部屋を出る。
他の宿泊客はまだ寝ているのだろう。
館内は波の音が微かに聞こえる程に静かだ。
皆の眠りを妨げないよう音を立てずに歩いたが、重厚な造りの木造建築には要らぬ心配であるかのように極々小さな軋みだけが聞こえる程度だ。

露天風呂から海を望むことは出来ないが、白み始めた空が旅の終わりを感じさせる。

朝食は8時。
所謂「旅館の朝食」といった優しい献立だ。

伊豆の朝食には定番のわさび漬け
そしてアジの干物だろう

食後にはラウンジでコーヒーの無料サービス。
器が可愛らしい。

朝の指の力が試される取手形状

部屋に戻ると、半ば諦めかけていた富士山が顔を出してくれていた。

山の間に富士山

こういった瞬間が、私が伊豆に魅了される瞬間なのだ。

素晴らしい時間をありがとう

ことさらに、月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合うと、思い込んだ事情があったからである。(中略)三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんというか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。

太宰治 富嶽百景より

今回私が宿泊した部屋「月見草」の名は、太宰 治の富嶽百景内で描かれる上記の文章が由来だと聞いた。

他にも大浴場は桜桃、思い出、富嶽、満願。
貸切風呂は花吹雪。
らうんじお伽草紙。
太宰 治の作品から名付けられている。

こちらの部屋をご希望の際は、宿に直接問い合わせ、当日部屋が空いていれば部屋指定でご用意いただくことが出来る。
お一人3,300円の指定料が必要だが、素晴らしい時間を買ってみては如何だろうか。

ちなみにこちらの旅館は別の顔もお持ちだ。
とあるアニメのキャラクターの実家という設定で、聖地巡礼として多くのファンが訪れる。
アニメで旅館が登場する場面を拝見したが、再現度の高さに驚いた。

太宰治ゆかりの宿であり、大変歴史を重ねた老舗旅館でありながら、新しい文化も受け入れるこちらの懐の深さを改めて感じる。

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