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【短編】やさしいおおかみ

深い深い森の中。陽光がか細く差し込むしっとりとした森の中。そこに一匹の狼がいた。
狼は殺生を好まない優しい心を持っていることで有名だった。喉が渇けば草露をすすり、腹が空けば悲しそうな顔で兎や狐を一口一口大事に噛み締めた。
森の動物たちは、そんな狼のことが大好きだった。お腹を空かせて目をぎらぎらさせる狼に、「みんな僕から離れて」と自らの野生の本能に逆らおうと苦しむ狼に、森の動物たちは「私を食べて」と寄り添った。
森の動物たちはみんな狼に食べられたがった。何より恐れるべきは、人間に殺されることだと知っていたからだ。人間に殺されれば最後、首を落とされ、皮を剥がれ、死してなお尊厳をずたずたにされる。それだけで済めばまだ救いのある方で、ブラッド・スポーツでこれでもかと虐げられ、潰れた喉を震わせ血の涙を流しながら死んでいくものもいた。
そんな傲慢で残虐な人間とは違い、慈しむように鼻を擦り付け、躊躇いながら、それでいて苦しみが一瞬で終わるように強かに牙を突き立てる狼。ごめんねごめんねありがとう。ごめんね。ごめんなさい。涙を浮かべたその瞳に労わられながら死ぬことのなんと甘美なことか。森の動物たちは狼に食べられることこそが至上の死だと思うようになっていった。
だが、狼はそんな自分にほとほと嫌気が差していた。ごめんねだなんて詫びながら、それでも結局僕は食べるんじゃないか。泣く権利なんてありはしないし、もっと横柄に振舞ってみんなが僕を怖がるように、僕に食べてほしいなんて間違った感情が湧かないようにするべきなんだ。
自らを責める声を聞きながらそれでもそうできなかったのは、偏に狼も森の動物たちが大好きだったからだった。怖がられるのが怖かった。嫌がられるのが嫌だった。

月が明るく光るよく晴れた夜、狼は一匹の鹿を食べた後、赤く染まった口元を食い縛り苦し気に泣いていた。
また食べてしまった。この鹿には親離れしたばかりの子供もいたのに。どうして僕は。どうして僕は。亡き鹿の立派な角を抱き締め、渦巻く自責の念に重くなる頭を草の上に横たえると、狼の瞼はだんだんと閉じていった。

渦を巻いた風がこっちに向かってくる。びゅう、びゅおおという音に思わずあっと声を上げた時、風が体のすぐ横を通り抜け灰色の毛を乱していった。口の中に砂が入り、ざりざりと不快に奥歯を撫でる。狼はそこで初めて自分が砂漠にいるのだと気が付いた。いつここに来たのだったか。森に帰らなければ。狼はそう思い来た道を引き返そうと踵を返した。しかし、見渡す限りの砂の黄色に、どこをどう歩いてここに来たのか皆目見当がつかなかった。
戸惑いしばらく立ち尽くしていたが、やがて狼はだんだんと怖くなってきた。そして何故かやたらと腹が空いていて、喉はからからなのに口の中は唾液で溢れていた。何かを食べなければ死んでしまう。今までにないほどの飢えを感じた狼は、食べ物を求めふらふらと歩き出した。
この時の狼を見たら、彼を慕う森の動物たちでさえ逃げ出すだろう。それほどまでに、狼は普段の彼と違っていた。いつもの理性を湛えた金色の瞳はそこにはなく、澱み濁り、しかし鋭い眼光に野生の本能を宿していた。肉を食い破り、その血を啜りたくて堪らない。
「…じが…れられな…から…たべ…いよ」
風の音に紛れながら、囁くようなか細さで子供のような声が聞こえた。瞬間、ふわり。野生の欲求にひくつく鼻を甘やかな香りが撫でた。こぽり。口の端から零れ落ちた唾液が地面に落ちて砂を濡らす。今まで嗅いだことのないほどの芳醇な香りに、狼は思わず駆け出した。
駆けて、駆けて、駆け続け、もう限界だと思ったとき、ずっと変わり映えのなかった黄色が突如として緑色に変わった。何が起きたのかさっぱり理解できなかったが、そんなことはもう狼にとっては些細なことだった。絨毯が広がるように地面を埋め尽くす葉は、森で見る野苺のものによく似ており、果たしてそこには赤く熟れて弾けそうなほど実を膨らませたそれがあった。
「…味が…れられなく…から…食べて…いよ」
先程よりもやや大きく、同じ子供の声が耳を掠めた。その声に背中を押され、狼は自身が肉食の獣であることを忘れてその赤い果実に食らいついた。
じゅわり。口の中に甘い汁が広がる。ふるり。体が喜びに打ち震えた。今までに味わったことがないほどの深い甘みに、狼は恍惚とした表情を浮かべながら無我夢中で野苺を食べ続けた。
口元をその汁の赤に濡らしながら、狼は、これからは野苺を食べていけばいい、そうしたら森の動物たちを傷付けずに済む、と安堵していた。誰も苦しめず、僕も苦しまない。誰かを殺めて生きる肉食獣の呪いからの解放に、狼は高らかな遠吠えを響かせた。

「狼さん、狼さん」
誰かの自身を呼ぶ声で、狼ははっと目を開けた。視界の端に白く長い耳が二つ移り込んでおり、そちらに目をやると心配そうな顔をした兎がいた。
「寝ながら鳴いていましたよ。悪い夢でも見たんですか?」
「夢……。そうだ、夢。良い夢を見たんだよ」
狼は見た夢を反芻しながら、兎に話した。野苺の美味しさ。あんなに美味しいものがこの世にあるなんて。僕はこれから野苺を食べて生きていく。僕はもう森の動物たちを食べなくていいんだ。みんなも僕に食べられなくていいんだ。涙さえ浮かべながら語る狼に、兎は不安そうな顔を見せた。
「肉食の狼さんが野苺だけで生きていけるはずがないよ。私たちを食べてください」
兎は、狼の食事にならなくて済む安堵よりも、選択的な死が無くなってしまうことへの恐怖を感じていた。どうしてどうして、いつか私を食べてください。ちゃんと私を食べてください。でないと、私は、私たちは、どうやって死ねって言うんですか。だんだんと泣き叫ぶように訴える兎に、それでも狼は首を縦には振らなかった。
「僕はこれから、森を南に進んだところにある野苺畑で生活するよ」
「南の!」
兎は驚きのあまり涙を引っ込めながら声を荒げた。
「あそこは人里に近いです!人間と出くわしてしまったらどうするんですか!」
「ちゃんと逃げるさ。大丈夫だよ」
狼は脚の速さに一家言持っていたので、自信を滲ませてそう言い切った。
「お腹が空いたから、すぐにここを出発する。心配ありがとう」
そう言うと狼は兎にぺこりと礼をして、抱き締めていた鹿の角を託した。大きく一つ伸びをして地を蹴った狼は、風のように駆け出した。空腹を感じた狼の頭は夢で食べた野苺のことでいっぱいになっており、兎を振り向く余裕などなく、ただひたすらに南を目指すばかり。

野苺畑に着く頃には日はだいぶ傾き、空を赤く染めていた。長らく走り続けていたための疲労と空腹で、狼は倒れてしまいそうなほどだった。
息を切らしながらよろよろと野苺畑に足を踏み入れ、そしたはたと気が付いた。あの香りがしない。あの食べずにはいられない甘く強い香りが全くしない。しかし、目の前の緑の間から顔を覗かせる赤い粒は間違いなく野苺だった。夢の中の出来事だったから、ちょっと大げさになっていただけで、本当はそんなに香りがする食べ物じゃないのかもしれない。そう思い狼は目についた中で一番熟れている野苺を恐る恐る口に入れ咀嚼した。
「!」
狼は思わず目を強くつむり、背中を丸めた。それほどまでにその野苺は酸っぱかったのだ。
夢の中の野苺とは似ても似つかない味に、狼は愕然とした。こんな、こんなのじゃない。焦燥に身を焦がした狼は目に入る野苺を片っ端から口に入れていった。
酸っぱい、酸っぱい、渋い、酸っぱい、これも酸っぱい。どの野苺にもあの夢の甘さはなく、腹は野苺で膨れていくが、しかし一層飢えていくような心地がした。
空に淡い橙を残して日が沈んだ頃、狼は茫然と立ち尽くし途方に暮れていた。狼の頭はどうしようで一杯だった。僕は結局、森の動物たちを食べなきゃ生きていけないのだろうか。いや、もう帰らないって、みんなを食べないって決めたんだ。でも、でも。どうしよう。
やがて視界が白く崩れてゆき、狼は自分が泣いているのだと気が付いた。誰も傷つけずに生きていく術が見つかったと思った。だがそんなものはまやかしだったのだ。狼は深く傷つき絶望していた。もうこのまま何も食べずに死んでしまおうか。そう思い全てを諦め地面に寝そべった時、子供のような高い声を耳が拾った。
「にん…味が…れられなく…るから…食べて…いよ」
狼がはっと顔を上げると、人里がある方向から野苺畑へ足を踏み入れる幼い少女がそこにいた。瞬間、血が沸いたように体がかっと熱くなり、視界が揺らぎ、赤く染まり、かと思えば暗くなって、ちかちかと光が弾けた。蝶番が軋むような短く高い、鋭い音が口元から聞こえる。そうだ、喉が潰れたときの、叫びたいのに叫べない悲鳴のような。ごりっと身の毛がよだつような鈍い音が頭に響く。そうだ、固いものと固いものをこすり合わせたときのような。脳が痺れるほどの極上の味が口に広がり、それは夢の甘さを上回っていた。自身を斜め上から見た光景が狼の脳裏に再生される。
少女の喉笛に噛み付く飢えた獣。
潰れる喉を震わせる幼い少女。
そこから広がる芳醇な香り。
瞳孔の開ききった瞳と瞳。
赤に染まった野苺の緑。
徐々に荒くなる呼吸。
徐々に弱まる震え。
徐々に霞む視界。
吹き出る鮮血。
沈んだ太陽。
瞬く星々。
吹く風。
苦痛。
涙。
それはあまりにも悲惨で残虐で色鮮やかな光景だった。狼は鳴いた。狼は泣いた。美味しい美味しいと泣いた。
少女の若く柔らかな肉の全てが狼の腹の中に納まるまで、そんなに時間はいらなかった。気付いたときには少女は綿の飛び出た人形のようになっており、それを見た狼は自らのしでかしたことの重大さに戦くよりほかなかった。糸が切れた人形のように力なく横たわる少女の、光のない虚ろな瞳を狼は覗き込み、目の縁に溜まる涙を舌で舐めた。狼は自身の全てをこのとき悟った。これからも自分は傷つけ、殺め、生きていくのだろうということ。そして、この味を忘れられず、この味を求め、また人間を襲うのだろうということ。そして自らの最期を思った。人間に恐れられ、疎まれ、屠殺される未来が見えるようだった。
狼は押しつぶされそうな胸に手を当て、森での生活を、ずっと言い損ねていたことを思い出していた。
「みんなのことが大好きだった、今までありがとう」
狼はこれから先、人間を襲うようになる自分を、森の動物たちが快くは思わないだろうことがわかっていた。嫌われることはあれど、もう好かれることはない。自分を食べてほしいなんて、間違った気を起こすこともないだろう。彼らが愛したのは、心優しい僕なのだから。
狼はこれでよかったのかもしれないと、喉元まで込み上げる熱い何かを飲み込んだ。命を助けるために、命を食べる。そのことが今はとても苦しかった。
狼が夜空を見上げると満月が清かな光を降り注いでいた。森の中で見るものと変わらないそれに狼はどうしようもなくなって、血に染まった牙を剥き出しにし、精いっぱいの遠吠えを張り上げた。
神様、救われません。僕のこれからを裁いてください。
だけど狼の鳴き声は神様とやらには届かないだろう。穢れた願いさえ無かったことにされてしまいそうなほどに、今夜は満月が見事なのだから。

森の動物たちは深い眠りの中。そこに狼はもういない。



「人間の味が忘れられなくなるから、食べてはいけないよ」

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