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以下に2022年10月2日(日)世界聖餐日/世界宣教の日を覚えて行われた四街道教会主日礼拝の礼拝メッセージを公開します。

聖書箇所は以下の通りです。
旧約聖書:出エジプト記12章21〜27節
新約聖書:ヘブライ人への手紙9章23〜28節
福音書:マルコによる福音書14章10〜25節

礼拝全体の動画はYouTubeに公開されています。

本文:

 今日は聖餐式がありますがいつもより長めの説教です。どうしても縮めることができませんでした。神さまが今日私たちに語りかけている大切なみ言葉を受け取りたいと思います。いつも通り欠けのある私の口を通して聖霊が豊かに働いてくださり、皆さんに福音が届くことを祈ります。

 さて今日は世界聖餐日の礼拝です。そもそも初めて教会を訪れる人にとって「聖餐」という語が分からないですよね。聖餐の「餐」は例えば晩餐会と使われるように食事のことです。聖餐とは聖なる食事を意味し、特に今日朗読されたマルコによる福音書に記されているイエスと弟子たちとの食事の場面がもとになっています。マルコによる福音書を詳しく読んでみましょう。14章10節以下ではまずイエスの12人の弟子の一人のユダという人がイエスを引き渡そうとして彼を敵視している人たちのところへ出かけていき、イエスを敵に引き渡す相談をするという穏やかではない場面から始まっています。そのような出来事の後にイエスと弟子たちは、ユダヤの人びとが大事にしている祭りの時期がやってきたので祭りの食事の準備に取り掛かります。

 夕方になり一同が席に着いて食事をしているとイエスはおもむろに言い出します。「はっきり言っておくが、あなたがたの一人でわたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」ここで「裏切る」と訳されている語は10節と11節でイエスを「引き渡す」と訳されている語と同じです。ちょっとここの翻訳は「弟子のユダは裏切り者なのだ」というこれまでのキリスト教の解釈の歴史が色濃く出過ぎている気がします。ユダがここで行おうとしていることはイエスを敵の手に引き渡すことです。もちろん「裏切る」という点でユダは裏切り者ですが、それなら他の弟子たちはイエスを裏切らなかったでしょうか。この後のお話でイエスとの関係を否認し、イエスを置いて逃げ出してしまった他の弟子全員が裏切り者だと私は思います。ですから今ここでイエスが問題としているのはあくまでイエスを敵の手に引き渡そうとしていることです。

 イエスは動揺する弟子たちに続けて言います。私は聖書に書いてある通りに去って行く。つまり敵の手に引き渡されて殺されるというのはあらかじめ定められていた神の計画なのだということです。そして非常にきつい言葉が語られます。「だが、人の子を裏切る(筆者注:引き渡す)その者は不幸だ(聖書協会共同訳:災いあれ)。生まれなかった方が、その者のためによかった」と語るのです。これは私たちがイメージするイエスの姿とはかけ離れたものの言い方です。イエスは自分を引き渡す者、ユダに対してはっきりと「生まれなかった方が、その者のためによかった」と言ってしまっています。ユダはこれを聞いてどう思ったのでしょう。傷つく以上に怒りを覚えてむしろこの時にイエスを引き渡す決意が固まったのかもしれません。

 イエスのこの言葉に対して聖書学者の方々も苦労しながらいろいろな弁明をしています。例えばある方は「私を引き渡す役割を担うことになるその人は不幸でかわいそうだ。神の計画とは言え私を引き渡す役を担ったことで大きな罪悪感を感じてしまうだろう。神がそんな辛い役割を負わせるためにその人をこの世に誕生させたなんてあまりにも不憫だ。いっそ生まれなかった方がその者のためにはよかったのかもしれない。」このようにイエスの発言を擁護する解釈の可能性を示しています。あるいはいっそ開き直ってイエスには厳しい側面があるとの見解を示し、イエスを敵の手に引き渡すというのはその人の生を呪うくらいの大きな罪なのだと書いている人もいます。けれどどれも私にはしっくりきません。そもそもイエスの厳しい言葉は後に続く「主の晩餐」と切り離して語ることができないものだと思うからです。

 イエスは自分を引き渡す者に対して誕生すら呪う非常にきつい言葉を発しました。それ自体は取り消すことも弁明することもできません。ではいつ語ったでしょう。祭りの食事の最中に語りました。イエスはみんなでご飯を食べている時におもむろに自分を引き渡す者がこの中にいるという話を切り出し、引き続いてパンをとって祝福してそれを裂き、弟子たちに「これは私の体だ」と言って与え、またぶどう酒の入った杯も「これは私の契約の血だ」と言って与えました。イエスは生を呪うというとても厳しいことを言ったのにその後に行われる特別な食事、イエスから手渡されるパンと杯をユダにも与えます。イエスはユダを除外せず、ユダも他の弟子たちと一緒にいっしょにイエスから食事をいただきます。それはつまりユダはあくまで同じ釜の飯を食う仲間だということです。

 ユダはイエスと一緒に食卓を囲む仲間としてふさわしいかふさわしくないかで言えば明らかにふさわしくないでしょう。またこの後ユダとは別の形でイエスを裏切ることになる他の弟子たちもふさわしいとは言えません。しかし、この場面では誰一人ふさわしい人間でないにもかかわらず、イエスの愛と慈しみによって食事をいただくのです。これが聖餐です。これがイエスの食事を共に囲む仲間であり、教会の原点です。私たちプロテスタント教会の多くは毎週の礼拝で聖餐式をしませんが、カトリック教会や聖公会の教会、ギリシア正教会では礼拝イコール聖餐式を意味し、プロテスタントさんの聖餐のない礼拝って何?という感覚を持たれています。その心は聖餐こそが教会に集まる人たちの中心であるという確信です。神さまにふさわしくない者たちがイエスに招かれ赦されて食事を頂き、ふさわしくなかったこれまでの自分を一新して、心新たに神さまに向かって共に歩んでいこうとするのが聖餐を中心とする教会という共同体です。

 もっとも、教会に集う皆が神さまにふさわしくない、欠けのある人間であるというのは神さまの前にあっては正しい表現ですが、ここに集う一人ひとりが均質ではないということには注意する必要があります。同じ罪人とは言ってもその中には力や権威を持っており、それを誤って用いてしまう人もいます。神の前では皆が罪人であってもある社会の中では強い加害者と弱く虐げられている被害者がいます。聖餐を囲む人たちの中ですら加害・被害の関係が起こり、傷つけ合う現実があります。世界聖餐日を祝う今日、終わりの見えない戦争をめぐって世界の教会は分裂し、傷つけあっています。また私たちの教会あるいは教団の中でも傷つけ、傷つけられる現実があります。加害者が赦されているのだからと居直ってはいけません。

 イエスはユダがしようとしている過ちを指摘した後にユダにもパンと杯を渡しました。ユダに対してこの赦しと愛の食事を頂いた者としてのリアクション、反応、応答を願っています。自らの過ちを認めて悔い改め、これからも同じ釜の飯を食う仲間として共に神に向かって生きてほしいとの願いです。聖書の順番に忠実であるならば罪を悔い改めてからイエスの食事をもらうのではありません。まずイエスの赦しに満ち溢れる食事に招かれイエスの体、契約の血をいただくことで神にふさわしくない頑固な私たちが変えられ、砕かれ、新しくされて、これまでの罪を悔い改めて一緒に神に向かって正しく誠実に生きていこうと歩み出すのです。神の愛の招きによって悔い改めへと導かれ、神に向かって再び新しくされて生き直すことが赦される。それが今日マルコ福音書を通して神が私たちに語っている喜びの知らせだと思います。教会はこの地上にあって理想の共同体ではありませんけれど、それでも教会が神さまの赦しと慈しみを注がれた共同体であることを覚え、私たち同士の関係においても赦しと慈しみを大事な宝物として受け継ぎ、いつも新しくされて神に向かって成長、成熟していけることを祈って生きたいと願います。

 最後に一つ。四街道教会では聖餐に与る条件を洗礼を受けた者、幼児洗礼を受けた後に信仰告白をした者としています。もし今日ここにいらっしゃる方の中で自分は良い人間になれないからとか、素晴らしい信仰を持って生きることができないからという理由で洗礼や信仰告白をするのをためらっている方がいれば、そのような理由でためらう必要はないということをお伝えします。今日聖餐に与るすべての人は、ふさわしい人間だからいただくのではありません。皆ふさわしくない、悪の部分や至らない部分を持っています。それについて神さまを悲しませることがあると自覚しています。しかしそれでも今日聖餐に与る一人ひとりはユダや他の弟子たちと同じようにイエスの赦しと愛の招きに身を委ね、感謝の思いに満たされイエスの前に進み出てパンと杯をいただき、それによって古い自分を脱ぎ捨て新しくされて生きていくのです。イエスは、私なんてふさわしくないとためらうすべての人を洗礼と聖餐へと招いておられます。

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キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

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