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ここでは7月28日(日)日本キリスト教団十日町教会における日曜礼拝の礼拝メッセージを掲載しています。


聖書:マルコによる福音書4章1~9節 

タイトル:「実りに目を向けよう」

本文:

たとえ話とは例話ではない

 イエスが語ったたとえ話に耳を傾けました。「たとえ」というのは例話ではありません。例話とはある事柄を説明する際に具体的な例として引く話ですが、イエスのたとえ話は単純明快に答えを示す話ではなくて聞き手に疑問を残してその意味を考えさせる話です。ですから「たとえ話」と訳すのではなく「謎かけ話」と訳した方が適切です。実際に旧約聖書のエゼキエル書では「たとえ」が「謎かけ」として登場します。エゼキエル書17章1~2節を読みますのでお聞きください。「主の言葉がわたしに臨んだ。人の子よ、イスラエルの家に向かって謎をかけ、たとえを語りなさい。」ですから今日私たちはイエスのたとえ話を単純明快な答えを示す話としてではなく謎かけ話として聞きたいと思います。

種蒔く人のたとえ

 イエスはおびただしい群衆が自分のもとに集まってきたので舟を出し、湖の上から岸辺にいる群衆に向かって話をしました。「種を蒔く人」のたとえです。「種を蒔く人が種を蒔いていると、あるものは道端に落ちて鳥が食べ、あるものは石だらけで土の少ないところに落ち根が張らず枯れてしまい、あるものは茨の中に落ちて茨が伸びて塞いだので実を結ばなかった。しかし他に蒔いたたくさんの種は良い土地に落ちて30倍、60倍、100倍の実りをもたらした。」そんなお話です。日本の農業では土を耕し畝を作ってそこに種を一つずつ蒔くやり方をしますが、2000年前のパレスチナではそういうやり方はとりません。土を耕すと種袋を持った人が畑に入っていき、空に向かって種をばら蒔くやり方をします。19世紀を代表する画家にミレーという人がいますが、彼は「種をまく人」という絵を描いていて日本の山梨県立美術館で観ることができます。この絵では農夫が種を握りしめて投げようとする姿が見事に描かれています。

多くの種は実を結ぶ

 そういうやり方をするとイエスが語ったようにすべての種が耕された土地に落ちるのではなく、ある種は道端に落ち、ある種は石だらけの土地に落ち、ということが起こります。しかし枯れてしまう種は少数であって多くの種は耕された良い土地に落ちて豊かな実を結ぶのです。マルコによる福音書はギリシア語で書かれておりますが、今日の箇所を原文で読むと「種」という語は出てきません。「あるものは道端に落ちた。ほかのあるものは土のあまりない石地の上に落ちた。」というように単数形の「あるもの」という語が出てきます。そして最後の8節だけ「ほかのいくつものものは良い地に落ちた」というように複数形で書かれています。あくまで実らない種は少数で、蒔いた種のほとんどは良い地に落ちて豊かに実ることを伝えているのです。

たとえを通して、つまり何が言いたいのかを考える

 この話はおびただしい群衆の多数を占める農民にとって納得のいく話だったでしょう。でもあまりにも当たり前の話すぎてこの話を通してイエスが何を言いたいのか首を傾げたに違いありません。マルコによる福音書の著者は民衆の間に広く伝わるこのイエスのたとえ話を福音書に収めますが、この話からどういう教訓を得られるのだろうと自分なりに考え、自分の生きている状況に合わせて4章13節以下にたとえの説明という話を書いています。13節以下はイエスが言ったことになっていますが実際には福音書を書いた人の創作だと考えられています。たとえの説明を読むと神さまからの良い知らせというより、神の言葉をいただいた一人一人が良い土地となって豊かに実りなさいという注意喚起になっています。

 しかしイエスが語ったたとえ話はそういう話なのでしょうか。イエスは「種を蒔く人」のたとえをしていますが、13節以下の説明では「種を蒔く人」はもはやどうでもよく、蒔かれた種とそれが落ちた土地に焦点が当てられていて、イエスが問いかけたいこととずれているように思えます。今日は種を蒔く人に焦点を当ててイエスが言わんとしていることをご一緒に考えたいと思います。

どの種が実を結ぶかはわからない

 種を蒔く人にとってどの種が実を結ぶかは分かりません。私は今から4年前、コロナ禍になってやることが無くなったので前任地の教会の敷地内にある小さな畑で小さな家庭菜園を始めました。小松菜、かぶ、なす、ピーマン、きゅうり、ミニトマトなどいろいろな野菜を育てましたが同じ場所、同じ条件で種を蒔いても育つもの、育たないものがあることを実体験として知りました。ほとんどの種は豊かに実るのですが、どうしても少数は実らない種があるのです。それはどうしようもないことで人間の力でどうにかなるものではありません。イエスはそういうどうしようもないこと、人間の力では何ともならないものに目を向けて反省したり不満をこぼしたりするのではなくて、種を蒔いたこと、すなわち自分が行動したことでもたらされた実りに目を向けて喜ぼう、感謝しようと伝えたいのではないでしょうか。私たちの行動は全部が全部実を結ぶわけではありませんが、実を結ばない種は少しであり、多くは実を結んで豊かな収穫へと向かうのです。そのことを心に留めてまず反省点よりも喜ばしいこと、感謝すべきことに目を向けるようイエスは私たちに勧めているのだと受け取りました。

保育の話 主体性を育む

 前任者の久保田先生におすすめされた方の書いた保育に関する本を読んでいます。今の時代の保育園では子どもたちの主体性を育てる保育が大切だと書かれていました。「主体性」と言われるとどんなことを想像するでしょうか。一つは分かりやすく、自分のやりたいこと、やりたくないことを自分の頭で考え、判断し、言葉や行動で表していくことです。今朝は月に一度のこどもときょうかいがありました。礼拝の後、後ろの部屋で工作遊びを楽しみました。園児の姉妹が来てくれていましたが、喉が渇いた妹が水筒の水を飲むと、お姉ちゃんが「だめ!飲まないで!」と怒り出しました。お母さん曰く、お姉ちゃんは自分の水筒から飲んで欲しくないけれど、妹はお姉ちゃんの水筒から飲みたいのです。お姉ちゃんはここで主体性を発揮して自分のして欲しくないことを考え、それを言葉で伝えることができています。

主体性の2つの側面

 しかし主体性とは自分のやりたいこと、やりたくないことを考え、それを言葉や行動で表すことだけを指すのではありません。それは主体性の半分で、もう半分は自分以外の周囲の環境、すなわちお友だちや自然や動植物などのことも自分の頭で考えて行動する、言葉にすることです。他の子があるおもちゃを使っている。自分もそのおもちゃを使いたい。だから奪い取ろうというのは前者の主体性は発揮できていますが、後者の主体性は発揮できていません。保育士は間に入って後者の主体性が育つよう寄り添い、手助けをします。子どもたちは自分のやりたいこと、やりたくないことを考えて主体的な言動をするのは割とできますが、周囲の環境のことを考えて主体的に行動する、言葉にすることは多くの場合、手助けが必要です。保育士が手助けしても周囲の環境を考えるという主体性はその場で、すぐには育まれないこともあります。でも頭ごなしにこれはダメ!ダメなものはダメ!というのではなく、考えることを促すことを忍耐強く続けていくのです。それがひいてはこの国の、この社会にとって大切な人材の育成につながると信じるからです。もともと主体性を育むというのはヨーロッパから持ち込まれた思想ですが、その背後には軍国主義、全体主義に対する反省があるそうです。王から、皇帝から、上官から言われたから絶対に正しい!考えるな!そうやって多くの過ちを生み出してきた歴史の反省にたって私たちは自分の頭で考え、行動したり発言したりできる人間を育成する必要があるのです。

キリスト教保育にとって種を蒔くとは

 私はそれがキリスト教保育園にとって種を蒔き続けることなのだと思います。神さまによって造られた子どもたち一人一人が良い畑です。ある種は道端に、ある種は土の少ない石地に、ある種の落ちたところには茨が生えてしまうかもしれませんがそれらの種は少数であって、多くの種は良い地に落ちて30倍、60倍、100倍の実を結ぶ。私たちが行う主体性を育む保育もすぐには芽が出ないかもしれないけれど、蒔いた種の多くはその子の心、良い畑に落ちてきっといつか豊かな実を結ぶのだと信じて種を蒔き続けるのです。

種を蒔き続ける

 イエスの言いたいことは蒔いた種が落ちた場所でどうなるかではなく、種を蒔く人の種蒔きという行動の大切さです。蒔いた種の中で実らない種が少し出てきてしまうのはしょうがないことです。そこに目を向けてどうやったら一粒の無駄も出さないかを追求するのではなく、自分が種を蒔くのはあくまで良い土地であるから種を蒔いたことでどれだけ豊かに実ったのかに目を向けて、それを喜ぶことを求めています。実らないものを嘆くのではなく実ったものに目を向けて喜び感謝することが人生を豊かなものにするのだよとイエスは私たちに投げかけているのだと私は思いましたが、皆さんはどう思うでしょうか。

皆さんはこのたとえをどう読むか

 説教の冒頭でイエスのたとえ話は単純明快な答えを明示するのではなく聞き手に疑問を残してその意味を考えさせる話だと言いました。その意味で私の説教も13節以下にあるたとえ話の説明と同じように一つの解釈であって答えではありません。ですからどうぞ皆さん一人一人がイエスが語ったたとえ話を聞き、その意味は何なのか、自分をどう活かすのか考え自分が聞き取った言葉に従って生きてほしいと思います。祈りましょう。

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キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

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