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幽霊観察日記:ghost

死んだら、どうなるのか。

いくら考えても答えの出ない疑問である。

そういう話を永遠と考えるのが好きだ。

1年前の冬、祖母が死んだ。

身内が亡くなることは私にとって初めてで、人が死んでいくところを看取るのも、お通夜もお葬式も、全てに現実味がなかった。

お通夜までの数日間、祖母は畳の上で眠るように死んでいた。

死んでいるにしては表情が柔らかく、眠っているにしては体が真っ直ぐと硬直していた。

額に触れるとひんやりと冷たくて、79歳なのに私よりもきめ細やかで綺麗な肌だった。

生きているうちにこんなに祖母の顔をまじまじと見ることがなかったので、段々知らないおばあちゃんのように見えてきたりもした。

しばらく祖母を見つめながら、葬式はどうするか、誰を呼ぶかなどの難しい話を家族がしているのを隣で聞き流す。

祖母が使っている化粧水が気になって勝手にタンスの中を漁り、資生堂の高そうな基礎化粧品一式を見つけて肌の綺麗さに納得するとともに、ドラックストアで適当に安い化粧水を買っている自分にため息をついたり、とにかくほわほわとした頭のまま目の前で起きている状況が夢の中であるかのように考えていたような気がする。


隣にある祖母の家から歩いてうちに帰り、夕飯と風呂を済ませて家族みんなでテレビを眺めぼーっとしていると、給湯器の電気が消えていないことに気づいた。

普段給湯器なんかに目を向けることはないのに、その時はなぜか気になってよく見てみると、「20分」と表示されている。

うちのお風呂は、浴槽に人が入っていると経過した時間を知らせてくれる機能がついていて、10分ごとにピピッと音が鳴る仕組みだった。

家族は全員入浴を済ませてリビングにいる。じゃあ、この20分の表示は…?


間違いなく祖母だと思った。

きっと祖母も死ぬのが初めてだから、魂の操作になれずに、ちょっとだけ座標がずれてうちの風呂場に来ちゃったのだ。

人んちで20分も浴槽に浸かるなんて、おばあちゃんもやるなあと心の中で笑った。

それからというものの、あったはずのものが突然無くなったり、ものが突然落ちたり、何もないところで転んだりといった不可思議な現象は全て祖母のせいにした。

生きているうちの祖母は気を遣ってばかりで人様に迷惑をかけないような性格だったが、それでも祖母のせいにした。

説明がつかない現象を霊や神のせいにすることは、納得のいかないもどかしさを全て解決してくれる救済なのだと思うとともに、世の中の宗教はきっと全て人間のエゴの塊なのだなーと思いながらも、全て祖母のせいにした。

何も考える必要が無くなって楽だったからだ。


お葬式が終わってからは、いよいよ祖母のせいにすることはできなくなってしまった。

きっと人間はこういう体系的な儀式をことある毎に行っていかないと、気持ちの切り替えをうまく行うことが出来ない生き物なのだと思う。

きちんとお別れをしないと、ずっと自分のそばにいるような気がしてしまう。

しばらく辺りを漂っていたであろう祖母は、どこに行って何を見ていたのだろうか。

体に縛られている今の生きているうちだって、私は空を飛びたいし、海を歩きたいし、犬と話して木々と眠りたい。

欲を言えば、タダでライブハウスに潜入したいし、嫌いな奴の鼻をくすぐってどう頑張っても止まらないくしゃみに悩ませるなどしたい。

「死んだように生きる」をもっとポジティブに捉えたら、新しい自由に出会えるはずだ!というまとめで、今日この疑問は解決したことにしようと思う。


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