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個性は非効率の賜物

今の時代、「効率的かどうか」にかなりのウエイトが置かれていると感じます。
現代人が忙しすぎるからなのでしょうか。
あるいは逆に、時間的なゆとりを作り出すためなのかもしれません。

確かに元々決めていた目的の達成にたどり着くには、効率を求めるだけで良いと思います。
ただ、それではちょっと寂しいんじゃないかとも思っています。

こちら、先日の旅の一コマ。

僕は極度に不器用なために車に乗れないので、旅先でも公共交通機関+徒歩で移動します。
1時間くらいならば平気で、炎天下でも無関係に歩きます。
これは時間的に非効率、すなわち「タイパ」が悪い上に、体力面でも非効率…いわば、「体パ」が悪いですね。

しかし、そのおかげでこの建物に出会いました。
それは、普通は車で通り過ぎてしまうような道にありました。
バス停もありません。

1873年に開校し、1991年に閉校したこちらの小学校跡。
二宮尊徳像を見たのなんて、いつ以来でしょうか。
車やタクシーに乗っていれば、何となく通り過ぎていたに違いありません。
もし見つけていても、じっくり見ることは叶わなかったでしょう。

この出会いで僕が再認識したのは、「非効率な過程からは、非効率なりに得られるものがある」ということです。

効率のよいまっすぐな道を歩むだけでは、皆同じになってしまいます。
せっかく個性を大事にする時代になりつつあるのに、杓子定規に効率を求めてしまうのは矛盾するとも言えるのではないでしょうか。
単に「正しく」て「効率が良い」と「教えてもらった」「調べて知った」道を歩むだけでは、個性など生まれないのではないでしょうか。

目的への道筋を大まかにつけておくことはとても大切ですが、「自分で試しながら」、「失敗しつつ」、「多少非効率でも」不器用に進んでいく経験も、時には必要ではないでしょうか。
寄り道することで、自分だけの発見があったりするものです。
そして、そうした経験が、個性を形作っていくのだと思います。

個性的な人って、ある意味不正解の塊だったりしませんか?
不完全で不正解だけれども、なぜか形を保っていて、様になっているような。
そんな人たちは、たくさん失敗して、非効率な人生を歩んできているはずです。

ただ、そんな不正解人間だらけだと、世の中が回らないのも事実です。笑
ビシっと効率的に目標を追い求めるのも、それもまた人生。
極めれば、素晴らしい成果を得られるでしょう。

いずれにせよ大切なのは、「自分なりに努力できているかどうか」。
人と比べてどうとか、周りがどうとかではありません。
僕が生徒さんそれぞれに掛ける褒める言葉も厳しい言葉も、全て「その生徒さんなりに出来ているかどうか」が基準です。
他の生徒と比べてとか、僕の絶対的尺度でどうとかではありません。

…随分話が長くなってしまいましたので、この辺りにしておきましょう。
僕の考えは多様な考え方の一つに過ぎませんが、参考やきっかけになれば幸いです。


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