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チケット発売&コラム

---What's new---
【チケットの発売がはじまりました!!】
先日より、こちらにて第二回公演~夜のしじま~(於:神楽坂セッションハウス)のチケットの発売を行っています。
電話予約をご希望の方はこちらです↓
カンフェティチケットセンター電話予約: 0120-240-540 *通話料無料
(受付時間 平日 10:00~18:00)

各公演の詳細はこちらからご覧いただけます。
各回一回券は一般2200円、学生1200円、2公演セット券は一般4000円、学生2000円です。各回とも1時間ほどの公演時間ですので、セットでご覧いただくのもおすすめです。ぜひご検討ください!ご来場、心よりお待ち申し上げます!!

---Column---
今回の担当は伊澤拓人さんです。18世紀末から19世紀前半の建築や絵画を中心とした文化史を専門に研究しており、Vol.1にて企画・演出を担当します。

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音楽の内臓に

服を好きだ。
どのように好きかと言えば、姿見に自分を写してみるとか、好きな色の組み合わせを見つけるとか、気に入ったデザイナーを追いかけるとか、そうした営みを通じて服を好きだ。
しかしわたしにとって服を着ることは、上のような快を得ることを超えて、もっと根源的な意味を持つように感じられる。あるときは、ほどけそうになる自分の輪郭を支えておくために必要なピースとして。あるときは、環境にうまく自分を溶け込ませるためのユニフォームとして。

「服は内臓。」
スタイリスト・北村道子の言葉は、わたしの感覚にうまく当てはまった。なぜかというとこの簡潔な表現は、人の外面と内面の区別をあまり当てにしていないからだと思う。

例えば「服は外面にすぎない」というクリシェがある。より重要なのは内面=本質であり、服は単なる飾りだという主張だ。もちろんこれには賛成できない。どれだけ服を剥ぎとっても本質などどこにも見つからないからだ。
対して、「服は内面を写す鏡だ」というこれまたクリシェが存在する。服は人の内面やパーソナリティを外に向けて表示するメディアだという考え方だ。しかしこれにも賛成しがたい。服はここで内面と呼ばれているものを、むしろ生み出すことさえあるからだ。
わたしは「服は内臓」という言葉を通して、自分はどうやら「人間には外面と内面があってそれらは分離している」とは考えたくない・・・・・・のだ、ということを発見した。服は身体や内面と分離したものではなく、もっと相互浸透的に接続した存在としてわたしの生理に深く関わっている、と思いたい。

わたしたちはよく知らない他者にであうとき、性別、職業、服装、髪形など外面的な情報に従ってさまざまなタイプに当てはめることが多い。そうすることで他者を理解したことにする・・・・・・・・・
そして、何か作品を鑑賞するときにも同じことが起こっているだろう。例えばこの絵は誰がいつ描いたのか、どこに飾られているのか。この曲は誰の曲か、誰が演奏しているのか、楽譜には何が書いてあるのか。

音楽作品にもこのように外面(作品の外部にある情報)と内面(音)があると考えることはできるけれど、とはいえふたつを完全に区別することはできないはずだ。服と内面が分離できないように。
そしてわたしの望みは(今回の企画を通して)、外面に全てを読むことでも、外面の全てを排除することでもない、音楽を聴く別の方法を知ることだ。それはいうなれば、音楽にうちから入りこむようにして捉えることだ、と暫定的に言葉にしておこう。

音楽の内臓にふれる。その鍵となるのが、「親密さ」ということになる。
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