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意識と仕草の境界線

自らの適切な「判断力」=境界線

人間は
生まれつき善悪の多くの欲望と
様々な感情を備えた生き物です。

心正しく真っ直ぐに成長した大人は、
出会い触れ合う相手を敬い尊ぶ
自他共栄(リスペクト)出来ます。

先年の全米オープンテニスで
多くのファンを感動させた
大坂なおみ選手の敗戦後の態度、
ゴルフ界でスマイルシンデレラ
と称されている渋野日向子選手の
ファンへの飾り気のない自然な笑顔、
来場者への感謝のステッカー配布、
記者会見で有りの侭の自然体の態度
は言うまでなく感謝と敬意の表れです。

しかし、
現在の格差社会環境では
このような利他・愛他活動を
進んでする人が減少し、
利己的で自己顕示、自己保身する人
が多くなりつつあると思われます。

今、わたしたちの住む日本では、
日々見聞きする社会生活上での人に関る
多種多様な善悪やモラル欠如の行為、
同時に心が温かくなり喜ぶ感動、
その逆に、心悲しく、辛く、残念であり
失望せざるを得ない事象が起きています。

この様な社会環境だからこそ、
人それぞれに見合った「判断力=心眼」
は必要不可欠ではないでしょうか❓

現代社会では、様々な自己表現法(パフォーマンス)
や自己演出方法に溢れた情報過多の社会環境、
出会った人の外見や第一印象だけで
人物の判断がし難い社会環境になり、
当然ながら、今迄の通念や常識とされる
当たり前が通用し難くなりました。

この様な社会環境の中で、
人として正しく生き抜くために
求められるのは「心の判断力」
即ち確りした【心の礎=軸】
を育むことであると考えます。

対人関係の基礎は言うまでもなく
お互いが【人と認め合う】ことです。

認め合う心があってこそ心豊かな
コミュニケーション活動や信頼が
生まれ、和・義・礼の活動、感謝(謝意)
の心身の活動に繋がるのです。
(仕事&日常生活でのコミュニケーション)

🙏🏻人間の欲(感情と煩悩)

誰しも好かれたい、認められたい、
愛されたい、信じてもらいたい、
信頼されたい、感謝されたい、
このようなことは、多少に関わらず、
その対象相手に何らか見返りを望み
求めることの表れであると思います。

人として相手にされたことに対し、
当たり前に返すべきことは見返りなのか?
人としての当たり前と応えるべきこと
≒見返りを求めること、の線引きは
一体何処でするのでしょうか❓

気遣いや思い遣りに応える活動は
見返りを求め望む心身の活動なのか❓

人として、社会人として挨拶して
当たり前と言う意識を持つことは
見返りを求めることなるのでしょうか❓

冠婚葬祭や祝い事などと言った場に、
立ち会うのが当たり前と考えることは?

感謝や礼は、手段を考えて
伝えるのが当たり前と思うことは?

自分の常識で相手を無視せずに
応えることが当たり前と言うこと
は見返りを求め過ぎなのか❓

など、他人の言動や態度をどうしても
自分の常識の「ものさし」で判断して
しまうことが社会生活上で多々あります。

他者に親切やお世話をする時に、
果たして見返りを期待しない方が良い。

他人から責められたくなければ、
自分から他人を責めてはならない。

そう心(頭)で理解していても中々
実際に実行出来ないのが人間です。

やはり、
好きな人には自分も好かれたいと考え
願う何らかの見返りを求めてしまいます。

例えば、
何かで自分のしたことで人としての
功徳が積めた、本当に良いことが出来た
と心から思えれば、何もその相手や周りの人
からお礼を言われ、賞賛されなくても
自分自身が嬉しくなり、満足出来ます。

人はきっと
最初に何か見返りを期待していると、
自分自身が良いことをしたと言う、
そのことだけのことに満足出来ない
結果に繋がってしまうのでしょう。

何か自分自身も良いことをした時に、
ついつい礼やお返し、又は誉められたいなど
と言う気持ちが心の中に起きていないか否か?
と言うことによくよく気を付けたいものです。

大人になって善し悪しに関わらず
様々な「見返り」と言う言葉の持つ
意味を知りよく子供の頃に見かけた
親達が、何等かりお世話になった
方々に忘れず何らかのお返しを
していた姿が思い浮かびます。

日本では、
何かされたり物品を頂いたりするなど
こちらから感謝をしなくてはならない時、
何らかり形でお返しをする風習(習慣)が
お中元やお歳暮と言った形で表わします。

人は、他人の出来ないお世話をしたり、
何らかの物などを差上げたりした時、
人は無意識の内に相手から感謝されたい
と言う見返りを求めてしまうものです。

例えば、
🔺人に好かれたいと思うより、
 人を好きになる活動をする。

🔺信頼されたいと思うより、
 先ず多謝を信頼することに心掛ける

🔺愛されることを求め望むよりも、
 こちらから愛する方が幸せに成れる。

🔺魅力は与えるもの、人に魅力を
 求めたり望んだりしてはならない。

🔺他人にお世話や親切にする時には、
 無私を心掛け、見返りを望み求めないでする。

🔺他人から批評や批判されたくなければ、
 自分も他人の批評や批判してはいけない。

🔺他人から責められたくなければ、
 自分も他人を責めてはいけない。

このような人としての煩悩の一つと
されるこの様な「見返り」を望み求める
気持ちを持たないようにすることは、
実際、頭の中では判っていても、
中々実行できることではありません。

私達凡人は、
好きな人や愛する人には、
好かれ愛されたい大切にされたい
とついつい思い願うものです。

折角他人に親切にしたのに、
何も感謝の言葉や態度を示されない
とガッカリしてしまいます。

時に、感謝の言葉や態度が示されず、
その人を許せなくて大切な御縁が
途切れてしまうこともあります。

自分が批判された時は、
「他の人だってやっているじゃないか」
と、つい他人を責めたくなります。

どうすれば、見返りを求めずに他人に
優しくすることが出来るのでしょうか❓

他人への愛情、善意、情けは、
何らかの形必ず自分に返って来る
と体験からも受け止めています。

相手から直接感謝されなくても、
巡り巡って他の誰かが返してくれます。

行為そのものが返ってくるというよりも、
そういう態度や心掛け(取組み姿勢)が
幸せ(幸福感)を引き寄せ呼び込むのです。

人は他人に優しく出来るから、
他人からも優しくして貰える。

優しくされることが嬉しいから、
益々他人に優しくなれる。

上手くその好循環に乗れば、
ことさら「他人に優しくしよう」
などと義務的に考えなくても、
「そうせずにはいられない」
と思えるようになれるものです。

問題は、
どうやってそのキッカケを
掴むかということです。

折角他人に親切にしても、
感謝されなければ、やはり損だ、
親切が無駄になるのは馬鹿馬鹿しい
などと考えて尻込みしてしまう
のも無理はないと思います。

しかし、自分のした親切を
「見返りを求めて、親切にする」
のではなく、
「過去に受けた親切に恩返しをする」
と考えれば良いと教えられ学びました。

「自分が先に親切にしたのだ」
と思うから見返りを期待してしまうのです。

人は誰でも、
過去に見知らぬ人や他人から
親切にされたことがあるはずです。

幼児と言われる子供の頃は、
みんな他人の手を借りなければ
生きていくことはできません。

今無事に生きられていられると
いうことは親族を初めとした
数え切れないほど多くの人の
世話になっている証拠なのです。

例えば、自分は相手に何も親切に
していないのに、全く無償で
親切にしてくれた人も必ずいる筈です。

自分でも気付かぬ内に
他人に迷惑をかけてしまったこと、
不用意に他人を傷つけてしまったこと、
それらを黙って許してくれた人も
少なからず居るはずです。

その恩に報いるために、
他人に親切にするのです。

相手に直接
お返しをすることが出来なければ、
他の誰かでも構わないと思います。

他人に優しくされたから、
自分も他人に優しくする。

他人に許してもらったから、
自分も他人を許す。

その善意が無駄になることはありません。

見返りが得られるだろうかと不安
を感じることもありません。

自分の善意そのものが、
他人への見返りなのですから、
それで目的を遂げたと言えるのです。

他人に親切にするといっても、
重苦しく考えることはありません。

折角の善意も、度が過ぎれば、
要らぬお節介となってしまいます。

相手の為に働いたり、物を与えたり
することよりも最も他人の為になることは、
「相手を尊重する」ということ、
例えば心を込めて挨拶をし、
話を聞き、共感することです。

相手の幸せを共に喜び、
落ち込んでいる時には見守り、
逆境にある時にも決して見捨てないこと。

相手の存在を認めること
それ以上の優しさはありません。

己の出来る小さな善意を、
日々コツコツと積み重ねて
行けば良いと思います。

気づいたころには、
「愛し、愛される」と言う大きな循環が
自然に出来上がっていることでしょう。

辛さや苦しみの原因は数多くある
と思いますがその一つは
「見返りを求める心」ではないか❓
と近年思い至るようになりました。

愛というのは、
無私無償の心でするものですが、
人の欲や感情が邪魔をします。

私達はあらゆる場で愛を学んでいますが、
愛は見返りを求めた時点で消えしまい
その心が死んでしまうのです。
即ち、「見返り求めると愛は死ぬ
と言うことです。

してやった、してあげたと思った
時点で、愛する行為にはならないのです。

ボランティアでも、普通の行為でも、
してあげた」と心に思い浮かべた瞬間に、
それが相手に伝わり、相手の心に
なんらかの負担になってしまいます。

私は、思い遣りの心を学ぶ中で無償の愛
「ギブ&ギブ」
ということを学び知りました。

「与えて、見返りを求めずに、更に与える」
という、見返りを期待せずに「与えっぱなし」
という考え方を知った時、「これだ!」
と思い、共感し、感動しました。

その後、何の見返りも期待しない、
求めない無私の気持ちを持つように
常々心掛けながら人々と触合いました。

正直に言ってそう心掛けることは
生きて来られたことの「恩返しする」
ことよりも、今迄の人生で犯して
しまった人として為してはならない
ことに対する「罪滅ぼし」=因果応報
の気持ちのように感じ取っています。

恥ずかしながら、
この自分の心との戦いは今もあります。
死ぬまで終わりが無いことかもしれません。

【判断力(境界線)を育む活動】✅

( )内
現在の必要性=〇 将来の必要性=✔ 不要=✖

💑貴方が認められる人のタイプは?(外見以外)

1.( )人として認める人は?
2.( ) 愛する人と認められる人は?
3.( ) 大切な人と認められる人は?
4.( ) 仲間・同僚と認められる人は?
5.( ) 友達・知人・友人として認められる人は?

6.( ) 顔見知りの人と認められる人は?
7.( ) 会話し易い人と認められる人は?
8.( ) 信頼出来る人と認められる人は?
9.( ) 謙虚な人と認められる人は?
10.( )誠実な人と認められる人は?

💔貴方が認められない人のタイプは?

1.( ) 人として認められない人のタイプは?
2.( ) 愛する人と認められない人のタイプは?
3.( )大切な人と認められない人のタイプは?
4.( )仲間・同僚と認められない人のタイプは?
5.( )友達・知人・友人として認められる人のタイプは?

6.( )顔見知りの人と認められない人のタイプは?
7.( )会話し易い人と認められない人のタイプは?
8.( ) 信頼出来る人と認められる人は?
9.( )謙虚な人と認められない人は?
10.( )誠実な人と認められない人は?

👥あなたの内省(自分と向合う)項目

( )自分のよい所を探す活動の有無?
( )自分を認める(受容れる)心の活動の有無?
( )貴方の認める基準の有無?
( )自ら人を認める具体的な承認活動は?
( )人に対するリスペクト(自他共栄)の活動は?

様々な境界線


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