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今日はクリスマスイブ

📦細やかな心ばかりのプレゼント🍀

極寒のクリスマスに成りました。
⛄雪害に見舞われた皆様
心よりお見舞い申し上げます。

心温かくなる記事になればと思い
学びのメモやフォトフォルダから
幾つか選び載せてみました。

🔴自分に嘘言訳はしない

テレビ番組-同期のサクラより

🔴心に残る長渕剛氏の言葉

誰れかのために

この文言は、
私どものタイトルに載せている
『自分のためより誰かのために』
と繋がる文言であると思います。
詳しくは以下に載っています。

松下幸之助氏の御縁の名言の続きに、
卒爾ながら実体験の文言(右緑字)を
加えさせて頂き右の文言としました。

御縁を生かす

🟢千利休-「知足安分」の精神

千利休-知足安分

今の物質社会だからこそ知足の精神、
これは現代にも通じる千利休の茶道理念
足ることを知って分に安ずる】
と言う「知足安分の精神」を改めて
意識する必要があると思います。

「南方録」巻頭覚書に「家は漏らぬほど、
食事は飢えぬほどにて足る事也。

是仏の教え、茶の湯の本意也。

水を運び、薪をとり、湯を沸かし、
茶をたてて、仏に供へ、人に施し、
我ものむ。花をたて香をたく。
みなみな仏祖の行いのあとを学ぶ也
。」
と述べられている。

必要な分を必要なだけを用意して
茶をたて、まずは仏に供え、
後に、人に差し上げ施しして、
最後に自分も有難く頂くと言う、
謙虚で思いやる、自利利他の精神
が生きていると感じ取れます。
これは古くて、新しい思想と言えます。
(学びのメモより転載)

🔳己の器を知る

人間は誰でも、
その人なりの器(器量)があり、
そして、必ずその自分を最も愛している
自分のココロが存在します。
同時に人間としての器(役割遂行)である
主の人、従の人と言う生き方を確りと
自覚し生きて行く必要もあると思います。

別な捉え方として、縦の柱の役目(役割)、
柱と柱を繋ぐ横の梁の役目(役割)もあります。

また、自心と向き合わず自らの器を
知ろうとしないもう一人の自分も居ます。

自分と向合う活動は、
これから先の自分自身は勿論、
利他・愛他の活動にも繋がります。

面倒でも自分の器を知ることに拠って
様々なことが見えて来ると実感しました。

下図にある「ゴールデンサークル」
と共に二つのWで捉えると明確です。

自分の器とゴールデンサークル

🔵スキル・テクニック至上主義の是非

数年前に活動していた頃、多方面から、
イベントやセミナーのお誘いも頂きます。

その中で、第一印象(メラービアンの法則)、
モテ仕草、ビジネステクニックやスキル
などに人気が多いように思われます。

講座を開いていた時は、公私ともに
経営者や指導的立場の多く方々に
お逢いし会話する機会も増えました。

以下、このような活動から感じました。

人間、一人ひとりの個性と、
夫々に大小の器があります。
個々人の個性・資質、夫々の器に
適したテクニックやパフォーマンス
仕草・スキルの学びが何よりも大切です。

教える人が誰に対しても、
同一の指導方法やマニュアル通りでは
その人の器にピッタリマッチした
スキルテクニックは決して身に付きません。

形と言われる所作・仕草・マナーは、
三原(原義・原則・原理)が元点です。

「人形作って魂入れず」の如く、
形だけを教えたのでは直ぐに、
本人の中身(器)に合わないことが
バレ、失望に繋がりその結果、
その人への不信感となってしまい、
折角作った人間関係も崩れてしまいます。

何事に於いても、無理して作ったり、
身に着けたりしたモノは直ぐに壊れます。

例えば、
「挨拶はこうしてするのです」
と教えるより
挨拶は、押し開き迫ると言う
 原義があるから、こうするのです

原義、原則を踏まえて教えた方が
目的が明確になり、心に長く残ります。

同時に、その人の個性(器)に
合った指導方法が求められます。
原義・原則を認識させた上で、
形や所作はその人の資質(器)に合わせて
教えてこそ始めて生かされるものです。

💟吾唯足知


竜安寺のつくばい

自分の器を自分確り知ることにより
自らの足りるを知る活動に繋がります。

石庭で知られる竜安寺の「吾唯足知」
のつくばいを思い出します。
でもこれは竜安寺だけではありません。
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(以下学びのメモより転載)

仏教の遺教経(ユイキョウキョウ)に
「若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、
まさに知足を観ずべし。
知足の法は即ち富楽安穏の処なり。
知足の人は地上に臥すといえども、
安楽なりとなす。

不知足の者は富むといえども、
しかも貧し。不知足の者は常に
五欲のために牽かれて、知足の者の
ために憐憫せらる。是を知足と名づく」
とあります。
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岐阜県 ・少林寺住職 
久司宗浩氏の文言。
「知足の人は地上に臥(ふ)すと
雖(いえど)も、なお安楽なりとす。
不知足の者は、天堂に処(しょ)すと
雖も亦意(またこころ)に称(かな)わず。
不知足の者は、富めりと雖も而も貧し。」
『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)』

足るを知る者は地べたに寝るような
生活であっても幸せを実感できるが、
足るを知らない者は、天にある宮殿
のような所に住んでいても満足できない。

足ることを知らない者は
いくら裕福であっても心は貧しい。

お彼岸をすぎると今までの暑さが
嘘だったように爽やかな晴天が続きます。
今年の夏は例年にない猛暑が続き、
「節電」の掛け声もかしましく、
一層暑苦しさを感じる夏でした。

そんななか、私たちはあらためて「知足」
という言葉の意味を考えさせられました。

各家庭にクーラーが普及し始めたのは
それほど昔のことではありません。

しかし今ではクーラーのない生活は
考えられないほどに普及しています。

その設定温度に気をもむようになりました。

より涼しくとの欲望が知らぬまに
私たちを支配してしまっています。

この世で、私たちは『もっと、もっと』と
物理的・現世的な功利を求めて奔走する
ようになってしまってはいないでしょうか。

江戸時代末期の歌人に
橘曙覧(たちばな・あけみ1812~1868)
という人がいます。

彼は貧乏な暮らしの中で
何一つ不平を言わずに家族愛に
満ちた人生を実践した人です。

その『独楽吟』52首のなかに、
たのしみは草のいほりの筵(むしろ)
敷(しき)ひとりこゝろを静めをるとき
という歌があります。

これこそ先にあげた『遺教経』
の精神を体現した生き方でしょう

知足とは「あるものでがまんする」
という意味ではなく
「そこにある物の中に積極的に喜びを見いだす」
という生き方でしょう。
言ってみれば「知楽」楽しみを知る
生活こそが「足るを知る者は富む」
との本意でしょう。

『独楽吟』には
他にたのしみは客人(まらうど)
えたる折しもあれ瓢(ひさご)に
酒のありあへる時という歌もあります。

秋の夜長、客人と清談するのも
楽しみを見つけるよい方法のようです。

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以上、読者の皆様へ今私の出来る
僅かなクリスマスプレゼントです。

ココロ温かなイブお過ごし下さい。

ココロ温かな一日になりますように🙏


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