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第126夜 現代の鬼子! イスラム国の興亡史(Part1 イスラム国の興隆)

数年前、突如中東に現れ、世界中に大きな衝撃をもたらした謎の国家「イスラム国」
もうすっかり話題にもならなくなり、結局あれはいったい何だったの?っていう人も多いですよね。
しかし実はイスラム国のもたらした対立と思想はいまだに世界のあちこちに残り、多くの紛争をもたらしているんです。
そんなわけで、あの謎の国家、イスラム国の興亡の歴史を改めて振り返ってみることにしましょう。
多分この手の話題はちょっと長くなるので、4回に分けてお話しますね。


全世界を騒然とさせたイスラム国の兵士たち

☆ イスラム国の胎動☆

すべての始まりは2000年のことです。
アフマド・ファディール・アン=ナザール・アル=ハラーイラというやたら長い名前のテロリストが、ヨルダンの王政打倒のテロに失敗し、逃亡先のアフガニスタンでアルカイダの指導者オサマ・ビンラディンと会ったことから始まりました。

ビンラディンに薫陶を受けたアフマドは、出身地ザルカーに因んでアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィーと名乗り、アルカーイダ傘下の新たなテロ組織を立ち上げることにしたのです。
このテロ組織『イラクの聖戦アルカーイダ組織』というのですが、イラクで外国人を次々と誘拐し、米軍の撤退を迫ると斬新なテロ手法を発明し、たちまち国際社会の注目を集めるようになります。
特に2005年に発生した日本人の誘拐殺害事件は、日本国内でも大きな反響を引き起こしたことを覚えている方もいるかもしれませんね。

日本人青年香田さんを誘拐し殺害したイラクの聖戦アルカーイダ組織

さて、当のザルカウィ自身はすぐ米軍の爆撃で死んでしまうのですが、その後継者マスリーは、単なるテロではなくイラクにスンニ派による独立国を建国することに目標を変え、名前も『イラクのイスラム国(ISI)』と改めることにしました。
そうです、ここにイスラム国の萌芽があるわけなんですね。

☆ ISISの進撃☆

とはいえこのISIもアメリカ軍の反撃ですぐボロボロになり、挙句にマスリーも戦死し、更にアルカイダ本部とも仲たがいをして2013年頃にはその占領地の大半を失っていました。
そんなもうISIもオワコンという中で組織を引き継ぎ、名前をISIS(イラクとシャームのイスラム国)と改めたうえ、一躍大発展させる立役者となったのが、バクダッド大学を卒業したエリートであるアブーバクル・アル・バグダディという人です。

当時イラクは既に米軍撤退していたものの、シーア派のマリキ政権の独裁が続き人々の不満が高まっていました。
バクダディはこうした不満に付け込み、スンニ派が大部分を占め、かつての反米暴動の中心となったファルージャを中心とするアンバール県に狙いをつけたのです。

2014年におけるイスラム国の進撃方向

そしてこの狙いは見事に大成功をおさめたんです。スンニ派の諸部族を見方につけたISISは2014年1月1日バクダット西方110キロにある県都ラマディを奇襲し、なんとこれを制圧してしまったのですね。勢いに乗ったISISは1月5日にはバクダットの西方70キロにあるファルージャ県の県都ファルージャをも陥落させます。なんと、ISISはたった2日で県都を二つも陥落させちゃったわけです。神がかりとはまさにこのことで、ここから神がかり的な自信をつけたISISの破竹の進撃が始まるのです。

☆ タブカ空軍基地の惨劇☆


勢いに乗るISISは次の目的地を内戦が続く隣国シリアに定めました。
2014年1月12日ISISはシリアの主要都市の一つラッカの攻撃を開始。
たった3日間の戦闘でこの街を占領することに成功します。

更に翌13日にはトルコ国境の町テルアビヤドが陥落、そのまま西進し14日にはアサド湖の入り口タワラもISISの手に落ちました。
一方ISISIの別働隊はユーフラテス川を超えてラッカ県からアレッポ県に入り、シリア北部のアルバブを、更に23日は要衝マンビジも攻め落としたのです。
4月10日にはラッカ県に隣接するデリゾール県の、イラク国境の町アブカマルもISの占領下となりました。

なんということでしょう。
僅か3ヶ月でシリア北部はイラク国境からアレッポ近郊まで瞬く間にISISの支配下になってしまったのです。

実はシリアのアサド政権は内戦のため、北部と東部を捨て西部に軍の主力を集結させていました。
ISISが簡単にシリアの都市を攻め取ることができたのはその為なのですが、しかしシリア第6位の大都市ラッカ周辺だけは、第17師団基地と東部最大の空軍基地であるタブカ空軍基地に兵力を集結させ睨みをきかせていたのです。

ISISにタブカ空軍基地が制圧されたことはシリアを震撼させた

ISISの次の目標は、当然この2つの政府軍基地です。
7月23日、ISISは第17師団基地をたった2日間の戦闘で壊滅させます。
この戦闘で生き残った兵士たちは近くのタブカ空軍基地に逃げ込んだのですが、8月24日、その守りも破られ、生き残った320人余りの守備隊は全員ISISによってその場で無残にも首を落とされて処刑され、その様子はYouTubeで全世界に流されました。

イスラム国は各地で残虐な方法で処刑を行い、イラクやシリアを恐怖に陥れた


このタブカ空軍基地の虐殺は、ISISの残虐さを世に知らしめただけではありません。
これ以後ISISへの恐怖のあまり、多くの兵士達が戦いを放棄して逃げ出すことにつながるようになります。
そしてこのことが、この後もっと大きな、信じられないような事件を引き起こすことになるのです。

☆ モスル陥落☆


バクダッドの北400キロに位置するモスル。
街の中央をチグリス川が流れ、その人口は180万人を擁するイラク第二位の大都市です。

ISISに占領される前のモスル イラク第二位の大都市だった

2014年6月9日。
800人のISISが自爆装甲車と共にこの街に突入してきた時、この街のその後の運命を知るものは誰もいませんでした。

当時モスルを守っていたのはイラク第5軍団の2個師団、約3万人。
更に3万人近い武装警察も配備されていたと言われており、街の守りはまさに鉄壁だったはずでした。

しかし、ここで全くもって信じられないことが起こったのです。
たった800人のISISの攻撃が始まると、なんと街を守るはずの軍隊は、恐怖にかられ軍服を脱ぎ捨てて我先にと逃げ出してしまったのです。
こうして6万の兵士はあっという間に霧散し、たった3日間の戦闘でモスルはISISの手に落ちてしまいました。

この勝利はISISに考えられる全てのものを与えました。
イラク中央銀行の大金庫にあった現金4億8000万ドル。
ソ連製のT72戦車30両、T55戦車10両、アメリカ製ハンヴィー装甲車2300台、多数の59Iカノン砲、ZU23ー2対空機関砲、TOW対戦車ミサイルなどの重火器と小銃7万丁。

まさにそれは小国一つ分の資金と兵器だったのです。

さて、モスルがあっさり陥落したのは、残虐なISISの風評を恐れてイラク軍が逃走したこともありますが、そもそもこの地域はスンニ派の人たちが多く、シーア派のマリク政権に不満を募らせていたことも大きな要因でした。

ISISが街を攻撃した時、実は彼らを街に招き入れたのは武装蜂起したナクシュバンディ教団軍という人たちでした。
ナクシュバンディ教団は古い歴史を誇る神秘主義教団ですが、フセイン政権のドゥーリー元副大統領の影響下にあり、そのメンバーの多くはかつての与党バース党の党員だったのです。

つまり、ISISによるモスルの占領とは、旧フセイン政権を支持した旧与党やスンニ派諸部族によるシーア派政権への反乱劇であり、いわばISISはそれに乗っかっただけとも言えるのですね。

しかし、まもなくISISを解放軍のように向かい入れたスンニ派の人たちは、自分たちの行為の過ちに気付くことになります。

(Part2に続く)


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