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第127夜 現代の鬼子! イスラム国の興亡史(Part2 終わりの始まり)

破竹の進撃を続けていたイスラム国はどうして滅亡したのでしょうか?
その大きな原因はシーア派への虐殺行為によってシーア派の人たちとイランを敵に回し、更にクルド人を攻撃したことでアメリカの軍事介入を招いたことにありました。
Part2ではイスラム国の転落を招いたそんな2つの致命的なミスについて取り上げていくことにしましょう。

☆ キャンプ・スペイサーの大虐殺 ☆

モスルがあっけなく陥落したことで、イラクは大した武装を持っていなかったように勘違いされますが、実は当時のイラクは15個師団27万人の正規軍と53万人の武装警察、治安部隊を要する軍事大国だったんです。
ところがいざISISの侵攻が始まって見ると最前線の4個師団は臆病風に吹かれて戦わずして逃亡。
しかもそれが全軍に連鎖して、まさにイラク軍は一瞬のうちにガタガタになってしまったんですね。

バクダットの北西140キロ。25万の人口を擁し、故フセイン大統領の出身地として知られるティクリートもその煽りを受けた街の一つでした。
街を守る第4師団はとっとと逃亡し、そこにISISがやってきたのです。

2014年6月もぬけの殻となったティクリートを、ISISが占領した時、街の郊外のキャンプ・スペイサーには1万人の訓練兵が取り残されており、全員が戦わずしてISISの捕虜となりました。
そして彼らを待ち受ける運命はあまりに過酷なものでした。
ISISは訓練兵のうちスンニ派の兵士は解放する一方、シーア派の兵士1700人は残虐な方法で処刑した挙句、その映像をいつものように全世界にYoutubeで流したのです。
これが数あるISISの虐殺の中でも最悪の殺戮劇と言われる「キャンプ・スペイサー虐殺事件」です。

このショッキングな映像は、全世界に衝撃を与えましたが、特にイラクのシーア派の人達を非常に憤激させました。
シーア派の指導者シスターニ師は、国民にISISからイラクを守れと呼びかけます。
この呼びかけに応じて数十万人ものシーア派の民衆が集まったのです。

スペイサーの虐殺以降シーア派民兵は正規軍に代わってイラク軍の中心となった

彼らに武器と戦術を与えたのは、役立たずのイラク政府ではなく、同じシーア派の大国イランでした。
まもなく10万規模の大軍となった人民動員隊(PMU)と呼ばれるシーア派民兵は正式にイラク軍に編入されます。
しかしそんな経緯から実態はほとんどイラン軍同然。
とはいえ、彼らの活躍もあってバグダットに迫ったISISは撃退され、辛うじてイラクは国家崩壊の危機を脱することができました。

スペイザーの虐殺は、ISISとの戦いがシーア派&イランとの争いにその姿を変える大きな切っ掛けとなった事件だったのです。

☆ アメリカ軍介入 ☆

2014年6月29日、ISISの指導者バグダディはモスルの光のモスクで演説を行い、自らのカリフへの就任と、ISISのイスラム国(IS)への呼称変更を宣言しました。
つまり、ここから名実ともに私たちの知るイスラム国が成立した訳ですね。

モスルの光のモスクでカリフ就任を発表するイスラム国指導者バグダディ

実はこの時、イスラム国の兵力はたったの1~2万人ほどでしかなかったようです。
しかしイラクやシリアの混乱や広範囲のスンニ派諸部族の支持を受けたことで、5万5000㎢の領域と800万人の人口を支配していました。
しかし好事魔多し。
実態以上に膨れ上がり過剰な自信を抱いたイスラム国はここで致命的な判断ミスを犯してしまうのです。

8月7日、クルド自治区の首都アルビル近郊でISとクルドの民兵ベシュメルガが衝突し、更にイラク最大のダムで、ベシュメルガが支配していたモスルダムをイスラム国が占領するという事件が起こります。

戦略的に重要なモスルダムに手を出したことがクルド人との対立とアメリカ軍の介入を招いた


実は元々イスラム国がクルド自治区と事を構える可能性は低いと見られていました。
それは13万もの兵力を誇るベシュメルガは精強で知られており、イスラム国がイラクとイラン、更にシリアに加え、クルドをも敵に回すことは戦略上ありえないとされていたからなんです。
又アルビルにはアメリカの石油企業が多数進出しており、中東軍の合同作戦本部やアメリカ領事館さえ存在していました。
クルド自治区はアメリカの中東戦略の要であり、ここを攻撃すればアメリカの介入を招くことは必至でした。

しかしイスラム国は調子に乗ってアメリカの虎の尾を踏んでしまったのです。
かくて8月8日、アメリカは突如イスラム国に対する空爆を開始し、本格的な軍事介入に踏み切ったのです。

イスラム国が方針を変えてクルドを攻撃し、アメリカの介入を招いたことは、まさにイスラム国崩壊に繋がる運命の選択だったと言えるでしょう。

☆ 石油をめぐる戦い☆

さて、イスラム国の主要な収入の一つが石油であったことはよく知られていますね。
2014年の夏までにISは少なくとも12箇所の油田を支配し、日産2万5000から4万バレルの石油を生産していたと言われています。

しかしいくら石油があってもそれを精製する設備がなければ、使いようがありません。
イラクには15箇所の製油所がありましたが、バクダット、バスラ、アルビル、そしてバイジの4箇所が飛び抜けて大きく、中でもバイジ製油所は、23万バレルの精油能力を持ち、イラクの国内消費の3分の一を賄う最大規模の製油所でした。

6月18日、ISがそのバイジ製油所を包囲し精油所の75%を支配下に収めたことは、イラク政府に大きな衝撃を与えました。

バイジ製油所の戦いはイスラム国の一つの曲がり角だった

イラク軍はこの製油所の奪還の為、あてにならない正規軍に代えて後に黄金旅団として知られることになる精鋭の特殊作戦部隊を投入します。
しかしISの抵抗は凄まじく、独力ではバイジ奪還は不可能だと悟ったイラク政府はアメリカ軍の空爆を要請、以後11月まで有志連合の空爆の大半がこの地域に投入されることになります。
数ヶ月にわたる攻防の末、11月8日遂にイスラム国の包囲網の一角が崩れ、イラク軍がバイジ製油所を解放することに成功しました。

これはISとの戦争開始以来、イラク軍はじめての本格的な勝利でした。
そしてISが遂にバイジ製油所を落とす事が出来なかったことは、イスラム国の勢いが一つの曲がり角を迎えたことを示していたのです。

そして同じ頃、シリアではイスラム国のターニングポイントともいうべき戦いが始まっていたのです。

☆ ターニングポイント コバニの攻防戦 ☆


シリアとトルコの国境の町、アレッポ県コバニ。
この小さなクルド人の町を巡る5か月もの戦いが、イスラム国にとってのターニングポイントとなるとは当初誰も想像もしないことだったでしょう。

コバニを支配していたのはクルド統一民主党の武力組織クルド人民防衛隊(YPG)です。
しかしシリアのクルド人の支配地域はハサカ、コバニ、エフリンという3つの地区に地理的に分断されており、トルコを通らないとお互いに往来ができない状態にありました。
いわばコバニは孤立無援の状態にあったのですね。

2014年9月13日、イスラム国はコバニに向け進撃を開始します。
24日までにイスラム国はコバニ自治州の300以上の村落と75%の地域を占領し、そして10月1日遂に町の郊外1キロまで迫ったのです。

コバニ市を守る最後の要衝ミスタヌール高地では、両軍の激しい戦闘が行われました。
この戦いでは兵士だけでなく老人や子供まで前線に送られました。
あるクルド人の母親は、爆弾を抱えて、自爆攻撃でイスラム国の戦車を破壊しました。
民間人をも巻き込んだあまりに凄惨な戦いでした。

イスラム国のターニングポイントとなったコバニの戦い

10月5日、ミスタヌール高地は陥落しイスラム国はコバニ市街に突入します。
コバニ攻略に投じられたイスラム国の兵力は約9000人。今までとはけた違いの兵力です。
10日YPGの本部も陥落し町の40%がイスラム国の手に渡りました。コバニの陥落はもはや目前に迫ったかに見えました。

☆ 遂に敗北したイスラム国☆

コバニ攻防戦が始まった当初、アメリカはこの町をさほど重視していませんでした。
しかし10月10日YPGの司令部が占領され、目前に迫ったコバニ陥落が全世界に伝えられるに至り、遂にアメリカ軍による猛爆撃が始まりました。
13日から17日の間、アメリカの爆撃は実に53回に達し、空からは24トンにも上る武器弾薬がYPGに落下傘で送られました。
これに勢いづいたYPGも反撃に転じ、空と陸からの反撃に晒されたイスラム国は市内の中心部から身動きが取れなくなりました。

コバニを奪還したクルドの女性兵士たち

31日、遂にYPGに待望の援軍が到着します。
イラクのベシュメルガが渋るトルコを説得して、大量の武器弾薬や重武装を携えてやってきたのです。

2015年1月24日、数ヶ月にわたるコバニの攻防戦で消耗したイスラム国は遂に退却を開始しました。
ここまで破竹の勢いで進撃を続けてきたイスラム国が一敗地に塗れたのです。

この戦いで彼らが失った2000人余りの兵力は表面上は直ぐ補充されましたが、彼らの自称した「神に守られた無敵の戦士」という神話は二度と取り返すことはできませんでした。

コバニの戦いは、まさにイスラム国の終わりの始まりだったのです。

Part3に続く

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