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100「いいね」は1コメントに如かず【SNSでのコミュニケーション行動の変質】

昨年末に竹馬の友らと酒を酌み交わした。

近況報告や昔話、互いの仕事の話などに花を咲かせた。

私のnoteも読んでくれており、読んだときはいつも「いいね」を付けてくれているらしい。

noteの仕様上ログインユーザー以外の「いいね」は誰がしてくれたかがわからないのは残念だが、「いいね」のうちの一つは知人が押してくれているのだと思うと嬉しいものだ。

中にはわざわざインスタのDMなどで感想を送ってくれる同級生などもいて、拙文に目を通していただけることに恐縮する限りである。

「いいね!ボタン」の席捲

noteの「スキ」、Xの「いいね」等、ほとんどのSNSには好意を表明する機能が備わっている。

「わかる~!」とか「共感できるなあ!」と思ったときに、タップ一つでその意を示せる有用なツールだ。

Wikipediaには「いいね!ボタン」として立項されている。

この機能の始まりはどうやら2010年頃のFacebookが初出であるようだ。

その頃の私はmixiやTwitterをやっている頃であったが、先日久しぶりにmixiにログインをしてみて驚いた。

当時書いていた日記を見てみると、2~30件のコメントが当たり前のようについている。

これは十数年前のmixiの日記。「イイネ!」なんて誰も押していない(そして、どうやら私は充実しているらしい)。


カスみたいな充実ぶりでした。「ww」が妙に腹立つ。


気を取り直して、現在と比較すると、この「いいね」に比べたコメントの割合は非常に高い。

進学塾unitの人間としてXアカウントやInstagramの運用をしているが、こんなにコメントがつくことは、プチバズりでもしない限りあり得ない。

プライベートアカウントでフォロワーが身内ばかりというようなケースであってもだ。

今日におけるSNSでは「いいね」がそれなりについても、コメント機能によってコミュニケーションが行われることは非常に少なくなっているように思う。

進学塾unitのInstagramはフォロワーが現在600人以上おり、「いいね」も平均して50以上つくが、コメントがつくことはほとんどない。

それは企業アカウントだからという理由だけでは説明がつかないだろう。


「いいね」の物神化

このような「いいね」登場前後でのSNSの変化が、我々のコミュニケーションに大きな影響を与えていることは、まず間違いないように思う。

まず一番に挙げられるのが「いいね」の物神化だ。

物神化とは、そのもの自体が持っている価値を越えて崇拝の対象となることを指す。

アテンションエコノミー(情報そのものの質よりも、人々の注目・関心が経済的価値を持つようになった実態を表す概念)という言葉の登場からもわかる通り、現代人は他者からの注目・関心(アテンション)を得ることに躍起になっている。

人類総かまってちゃん時代だ。

「いいね」の奴隷。

当然それはリテラシーのない人間による過激な行為(スシロー迷惑動画事件のような)にもつながる。

酷いもので、X(旧Twitter)では内容の如何を問わず3ヶ月で500万件のインプレッションさえ発生すれば収益化が可能になっており、数字を持っている芸能人・インフルエンサーのリプ欄にはインプ稼ぎのコメントが殺到している。

「いいね」どころかコメントまで陳腐化する始末だ。

二宮和也が一度「おはよー」と呟けば、ファンですらない人間からの“無機質”な「ニノ、おはよー♡」が飛び交い、自分の可処分時間を使って他人の可処分時間を奪うという地獄絵図が繰り広げられている。

果たして多くの「いいね」が得られれば心は満たされるのだろうか。

きっとそうではない。

「いいね」を求めるものも「いいね」する側に回ったことがあるだろうから、当然「いいね」の虚しさを知っている。

好意の表明や応援のつもりで「いいね」する者もいる一方で、とりあえず反射的に「いいね」する者や、ブックマーク代わりに「いいね」する者、付き合いで「いいね」する者がいることも知っている。

「いいね」は必ずしも「いいね」ではないのだ。

人は空虚な「いいね」に心が満たされぬまま、それでも「いいね」を求めてしまう。


「いいね」が地蔵化を招く

「いいね」の簡便性には落とし穴もある。

前述のとおり、かつてのSNSではコメントによるコミュニケーションが行われていた。

それが「いいね」に代替されたことによる機会損失の影響で、テクストによるコミュニケーション力の低下を招く危険性がある(塾のLINE公式アカウントで塾生とやり取りしていると如実に感じる)。

「やばい」を乱用するゆえに語彙が育たないのと現象としては同じだ。

LINEのスタンプ機能が短文に代替されるようになったのにも同様のことが言える。

SNS黎明期ではネット弁慶が跋扈したが、現代ではネットですら弁慶になれない若者が多いのではなかろうか。

「内弁慶の外地蔵」というが、これではただの地蔵である。

さらに、「いいね」がすべての感想を代替するゆえに、それ以上の感想を抱くことをやめてしまうということも起こりうる。

このことは、タブロイド思考(複雑なものごとを何でも単純化して把握しようとする思考パターン)を助長することにも繋がるのではなかろうか。


100件の「いいね」より1件のコメントの方が嬉しい

自分の言葉で自分の思いを綴る機会が極端に少なくなっている現代。

せめて好意を表明するときだけでも、「いいね」に頼らずにテクスト化した方が良いのではなかろうか。

これこそがSNSとの最も健全な付き合い方である気がする。

100件の「いいね」より1件のコメントの方が嬉しいものだ。

国語という教科を通してできることも多いと思うので、啓蒙活動をしていきたいと思った次第である。

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