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アカデミックな学びを越えてー著名人との対話からー

1.著名人が求めていたこと

 先日、ある著名人とオンラインで長く話をした。著名人さんの方から私に話をしたいと連絡をとってきたのである。その理由は仕事上の課題を解決するためのアイデアを教えてほしいからであった。私がミーティングを引き受けた理由は何かおもしろそうだからである。大学教員は、おもしろそうなところに訪ねて行く習性がある。

 オンラインミーティングが始まった。諸課題について、どうすればいいかと聞かれ、一応、大学教員の私は、理論的に答えた。ところが相手は著名人、すでに、私が言ったことは行なっている。なので、私の回答にあまり喜ばない。さすがによく勉強され、実践されている。しかし、私の次の発言が、二人の会話に変化を及ぼした。

 「全然関係ない話なんですけど、私は〇〇のような活動をしています。著名人さんもよく知っている地域のことなんですけど、そこも我々の活動で変わったんですよ。」と私は言った。これは実践の話だ。すると著名人さんは、顔色が変わり、「その話はヒントになる。もっと詳しく教えてほしい。」と言ってきた。この関係ない話が諸課題の解決に貢献する! これこそ、複数の人の間で生じる非認知能力であろうか。

2.これからの学びの在り方―非認知能力の育成―

 さて、著名人さんと私の会話は佳境に入り、予定時間をオーバーしていたが、お互い気にも留めない。そして話題は、これからの学びのあり方に移っていった。著名人さんは私に聞いてきた。
 
著名人「先生は、今、何の研究をしていますか?」
私「いろいろです。えーと、メインは、そうですね、非認知能力とか社会情動的能力の研究で、それをどう学校で実現するかです。」
著名人「私も非認知能力は大事だと思う。今までの入試は何だったのか。でも、それを実現するには、日本には岩盤のような壁がある。なぜだと思いますか。日本には外国とどんな違いがあって岩盤ができるのか?」
私「そもそも、外国人と違って、日本人は学校で書く力や論理性、論文のリファレンスの書き方を学んでいない。そして、そのまま教師になる。そして偉くなる。その人達は岩盤になるでしょう。いくらアクティブラーニングと言っても、表面的になる。教師が研究してなかったり、理論を知らない。理論を学ばなくても生きていける。それでアクティブラーニングを教えられますか。研究とは何かを答えられない教師が、どうやって探究学習を教えるのか。生徒の方が優秀な場合もあるでしょう。教育現場だけではないでしょう。今さら変われない、今さら否定されたくない人達が、日本全体の随所にいる。随所で自分の既得権を守ろうとして、新しいものを取り入れない。教師や教育界も。だから、改革の壁の岩盤があり、日本の教育は変わらない。」
著名人「書く力は大事。書けなければプレゼンできない。文章に書けるからプレゼンできる。プレゼンだけ練習しても仕方がない。プレゼンできない偉い人はいっぱいいる。その偉い人は何なのか。子供や部下をリードできるのか。国語教育の改革が必要。日本も少しはよくなってきたけれど。一部の教師は研究できますよね。」
私「その一部をコアにして、広めていかないと。」
著名人「そうですね。」

3.AI時代に求められる能力

 このように話すうちに、著名人さんはおもしろいことを言い始めた。AI時代に求められる能力についてである。

著名人「これからはどんな能力が求められると思いますか?」
私「これからは、chatGPTをうまく使いこなす能力が求められるのではないか?」
著名人「そうです。標準的な知識や解決策はもう人工知能がつくるでしょう。だから、chatGPTを使いこなすだけでなく、エッジの効いた少数の、あるいはオリジナリティのある斬新な見解を示す能力が大事です。」
私「なるほど。標準から外れたところに光を当てる能力は、おもしろいですね。そのような能力を育成するためには非認知能力の育成が必要だと思います。」

4.認知能力と非認知能力の関係性という視点

 その会話の時思いつかなかったことをここに追記しておく。非認知能力、社会情動的コンピテンスだけでなく、非認知と認知の関係性が変わるのだ。今までは、認知(ペーパーテストで測れる能力)が主で非認知(社会情動的コンピテンス)が従だった。少なくともテストでは、現在も認知(内容)が主であると言えよう。今後、非認知(方法)が主になるのか? そんな思いで次の本(下記のURL)の表紙を眺めた。そこには「アカデミックな学びを越えて」と書いてある。では、学校や学級でどのようにアカデミックな学びを越えていくのか? 非認知が主になるとして、そのための道筋はみえているのか? 認知と非認知の関係性の再構築(脱構築)の道筋を照らす灯はあるのか? そんな問いが五月の夜空の彗星のように現れた。

https://www.oecd.org/education/ceri/social-emotional-skills-study/beyond-academic-learning-92a11084-en.htm

5.学級の在り方

 私の発言を受けて著名人さんは続ける。

著名人「不登校や発達障害の子が増えている。同質性を前提とした今の学校、学級は限界なのでは?」
私「限界に来ていると思います。時間割も。だから個別最適化した学びー学習のパーソナライゼーションが必要です。」
著名人「個別最適化した学びを行って、協働学習は別の枠で行えばいい!」

6.アカデミックな学びを越えるために

 著名人と私は意見が一致した。そして、オンラインミーティングを終えた。しかし、問いは明確になった。改めて、「アカデミックな学びを越えるためにはどうすればよいのか?」という問いが夜空に浮かび上がる。

 このような問いにこれからの教育界や教育学は答えていかなければならない。その際、グローバルな視点と学校現場の実践の両方を見る必要があるだろう。そして、グローバルな教育界と日本の学校現場に、どんなナラティブ(人生のような物語とその語り)があるのだろうか? 教育専門家のナラティブが今求められている。chatGPTには物語はない。ナラティブはchatGPTを越えるのである。ウエルビーイング、公正(Equity)、エージェンシー(Agency)が非認知能力と結びつくと良いのか? 教育専門家のナラティブに聞く必要があるだろう。

7.ポジティブ、楽観性、自己肯定感

 そうは言っても、ポジティブになることができないという人が多い。他者と比較し、自傷的になり、楽観的になれないと言う。楽観性は非認知能力のコンセプトの一つである。学校や家庭で楽観性を育てる必要はないのだろうか。例えば、良いところに着目したり、自己肯定感を高める教育は、小学校から高校まで連続して行われるべきである。

 ところが日本には高校入試があり、どうしても断絶してしまう。日本で包括的で連続的な新しい教育を実現するには制度的な壁もある。日本では、外国と比べて、どうしても制度が主になり、子どもが従になっている。これで非認知能力を主にして、認知能力を従にすることができるのだろうか。学校の組織運営の力によって、この壁を乗り越えることができるのだろうか。学校外に「居場所」をつくる必要もあるのではないだろうか。

8.人との関わりについて

 人間は人との関わりにおいて幸せになれる。では、児童生徒の意識はどのようになっているのだろうか。「「権力を取りに行きたいチャレンジャー」と「なるべく失敗しないよう自分の影響力の範囲を狭めて最大限の幸福をとりにいこうとする人」と、多様な価値観がもろに可視化された時代だなぁとも思います。」という指摘がある。(「権力」と「孤独」の関係性とは|JUN🧩子どもの「居場所」をつくる先生 (note.com))もし、非認知能力や社会情動的能力を育成しようとするならば、このような意識を考慮する必要もあるだろう。


(©️Dr Hiroshi Sato 2023)




 


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