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ケアリングと教育

 今日は、ボトムアップな学校経営の原理について考えていた。私が尊敬する英国のクリス・デイ教授は、感情的な信頼が学校経営において重要だと述べている。この指摘の基盤となる理論はないだろうか。「学校経営と学級経営の基盤にケアの理論がある。」これが今日の発見である。

 この発見に辿り着くには、まず教育の定義が必要である。教育とは、発達可能態である人間の潜在的可能性を開花することである。ここで教育は、主に学校という組織、空間において、教育専門家によって行われるものとする。もとより、家庭や地域におけるケアリングも重要である。

 では、教育の関係性は、何によって理論付けられるのか。ケアの理論であろう。ケアとは、お互いのそばにいて、相互に認識し、保護し、成長を助け、励ます関係であり、コミュニティ、文化、可能性を形成する。ケアは、自然であり、倫理的である。そして不完全である。完全な教育など、世の中には存在しない。

 しかし、いつも子どもにケアする教師ばかりではない。残酷な教師もいる。同じことは同僚間でも言えよう。同僚間でケアする関係ができているか。むしろ、それは難しい。自己責任論が跋扈する学校はないだろうか。お互いに認めい、支え合うナラティブなコミュニティーその基盤にはケア理論があるーが本来望ましい。

 では、学校で、ケアする関係理論に基づく学級と学校(さらには学校の文化と伝統)を形成するためには、どうすればよいのか。一人一人の教師が本音で語り、情熱を消滅させず、共に前に進むほかない。校長は、後景から描かれ、自らの「こうしなければいけない」をやめる。校長も一人の教師であり人間であったと開示された時、共感を呼び、教師の活動は再生される。そのほか、学校外の環境では何が必要だろうか。保護者、教育委員会などとの関係も問われるだろう。

 ある県立高校は、ケアリングを基盤とするような学校であった。あの学校は今どうなっているのだろうか。そこでは、少ない予算の中、教師は懸命に協力し、実践に取り組んでいた。経済的、精神的に困難を抱えた生徒が学校に助けを求めていた。教師は生徒に向き合い、その存在を受け入れて実践してきた。

 学校と学級において、教師が子どもをケアすることがなければ、不登校、自傷行為、暴力はなくならない。逆に、ケアリングを基盤とする学校と学級では、子ども同士の関係も、自然で倫理的にケアし合う関係になる。ケアリングが不完全なのはある種当たり前である。完全な教師など、逆に恐ろしい。「あなたはそこにいるだけで素晴らしい。」そのような想いに満ちた学校、学級が理想である。この理想無しに成績だけ伸ばしても意味はない。

 学校教育におけるケアリングは国際的にどのようになっているのだろうか。よく北欧が引き合いに出される。それは北欧の教育が、社会民主主義的な北欧的価値観に基づいているからである。このことは、ケアリングの理論だけでなく、共生社会の構成原理の探究を要請している。最後に関連文献を記載しておく。

https://core.ac.uk/download/pdf/149233647.pdf

https://www.uvm.edu/~rgriffin/NoddingsCaring.pdf

https://www.jstage.jst.go.jp/article/hcs/2019/29/2019_651/_pdf/-char/ja

https://core.ac.uk/download/pdf/144466252.pdf


(©︎ Hiroshi Sato 2023)



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