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あれは30何年前の旅

こんにちは。6502です。

今日はJTB公式noteさんにあおられて(失礼!)、古い記憶を呼び覚まし、人生初の一人旅についてポストします。


【事前準備】

十八歳東北一人旅計画始動!

一九八八年のことです。当時高校三年生。大学受験という大きなイベントがありました。

生まれたときからずっと大阪に住んでいたので関西圏の大学に行きたかったのですが、それはそれとして、合格の可能性がより高いところとして、東北地方の某大学を受験することにしました。

その頃は、泊付きで旅行をするのは結構大変なことでした。

インターネットなんかないんですよ。(あったけどまだ一般人が使えるものじゃなかった)
何から何まで窓口に行って、あるいは電話で、手配しないといけないんです。
こちらは全国を飛び回るビジネスマンではなくて、近畿地方の外に出たことはそれまで4、5回しかない、しがない高校生ですから、その不安たるや、言葉にはできません。

親は付いてきてくれないし、付いてきてもらおうとも思っていませんでしたけどね。更に言えば手配も全部自分でやりました。いまの高校生からすると独立心旺盛だったかも・・・

宿泊手配

受験する大学、正確には生協からだったような気がしますが、宿泊先を斡旋してくれたので、とりあえず早い段階で申し込みました。
ですけど、提示されたのは大学から鉄路で1時間以上かかるようなところです。

「ちょっと勘弁してよ」

といってもどうにもならない。

それよりも目先の受験の方が優先です。

やがて、出発日を一週間後くらいに控えたころ、大学から電話がかかってきて、
「○○ホテルに変更できますけどどうしますか」
と言われました。

そこは試験会場である大学まで、地下鉄で四つくらい離れた駅で、市街地ど真ん中にあります。仮に歩いて行っても、大学まで一時間程度のようでした。

「おねがいします」

即断即決は今でもわたしの長所です。

それにしても、あの時のうれしさは忘れられません。

今思えば、共通一次試験が終わって(共通一次知らない?)、その後の応募状況もみて、受験を諦めた人が結構いたのでしょうね。というか、どこの大学でも、例年、そういうものなのでしょう。

ちなみにですけど。

宿泊先変更の連絡がある前のことですが、大学にまかせていると遠いホテルに止められて、コンディション不十分での受験になりかねないと心配だったので、近所の旅行代理店に行きました。

このときにJTBさんに行けばよかったんですけどね、本当に近所ですが個人営業の小さな代理店があって、親切にやってくれるかなあと思って、扉を開けて中に入りました。

ご主人らしい初老のおじいさんが談笑していました。電話だったのか、相手がいたのか、そこまでは覚えていません。

「えっとあの、仙台に行くんでホテルをとって欲しいんですけど」

やっとの事でそう伝えると、おじいさんの返事はふるっていました。

「んー。これ、パンフ。自分で電話して」

いや、あんたのところ、旅行代理店でしょ、と思いましたが、こういう人にやってもらうよりは自分でやった方がまだましと割り切って、大人しく店を出ました。

繰り返しになりますが、当時はネット予約なんてできないし、そもそも、JTBの時刻表でも見ないと、どういう名前のホテルがあるかもわからないし、住所は分かるけど旅行先の細かい地図なんか手元にない。
分からないことだらけなんです。(るるぶは存在しましたよ)

結局、このご近所代理店への訪問は全くの無駄に終わりました。でも長い人生、いい勉強したなと思います。

【一日目】

まずは新大阪へ

地元の大学の受験が終わり、いよいよ東北へ旅立つ日がやってきました。
とりもなおさず切符がいりますが、大胆にも、当日買えばいいやと思っていました。

近所のJRの駅にはみどりの窓口がないのですが、

「乗車券だけ、仙台まで」

と、ものすごく大胆でかつ迷惑な発注をしました。切符なんてものはどこでもひょいひょいと出てくるものだと思って疑いもしなかったので、こういうことになったのです。

駅員さんは額に汗を浮かべて、距離計算、料金計算をしていました。かなり時間がかかりました。

そこそこの時間が過ぎてしまうと、もう、

「いいです。とりあえず新大阪まで近距離切符ください」

とは言えなくなりました。

たっぷり十分くらいかかったのではないかと思いますが、差しだされたのは、券面の裏が磁気になっているやつではなく、画用紙のような手触りの厚めの紙に、スタンプと手書きで経路が書かれたものでした。

手間をかけてしまったことは重々承知していますが、

「この切符つかえるんですよね」と聞いてしまいました。

あのときの駅員さん、失礼なこと言ってごめんなさい。

せんだい?

在来線で、新大阪までたどり着きました。

新大阪だって近くはないので、そうそう来るところではなく、構内に入るのはひょっとすると生涯で5回目だったかもしれません。

ともかく特急券を買わないといけないので、みどりの窓口に並んで順番を待ちました。

そのころのJRは、まだ、旧国鉄系のマインドが強く(JRになったのは一九八七年四月。まだ一年も経ってない)、接客は全然ダメでした。

「仙台まで、1人」

といったら、これが窓口おじさんの気分を害したようです。

「せんだい? カワウチの川内?」

意味不明でした。当時、鹿児島に川内という地名があることなど知りませんでしたので、ドギマギしていると、

「三本川に、内外の内で川内。違う?」
「違います」
「じゃあ宮城の仙台」
「そうです」

それにしても、新大阪から高校生一人が、センダイって言ったら、まずは杜の都仙台かって聞いてくれよと、あとから思いました。

人に対してこんな対応をするべきではないと学びましたよ。

あのときの意地悪な駅員さん、社会勉強させてくれてありがとうございます。

新幹線

新大阪から東京まではひかりで三時間半くらいだったと思います。
数年あとのことですが、のぞみが登場し、高速化が進められて、いまや二時間半くらいで行けるようになりました。技術は進歩するのですね。

東京駅に着いたら、まずは山手線を目指しました。その頃は、東北新幹線が東京駅に乗り入れてなかったのです(乗り入れが実現したのは一九九一年六月)。

東京の電車のことなど知らなかったので、並行して走る京浜東北の方が停車駅が少なくて早いとは全く考えませんでした。まあ、大した差ではないので、受験生としてはどうでもいいことです。

やがて山手線は上野駅に到着。ここから東北新幹線に乗り換えます。いまのように山形新幹線、秋田新幹線もなく、上越新幹線はあったものの、ややこしいことはありません。ちなみに、当時の終点は盛岡でした。

東京まではこれまで来たことがありました。しかし上野駅の先は未体験ゾーンです。東海道新幹線のときには感じなかった心細さが、ここに来て体にじわじわしみてくるかのようでした。

「いまから帰っても明るいうちには帰れないなあ」

もちろんそんな気はないのですけど、ふと思ったりもしました。

二時間半くらいかけて、やまびこは仙台駅に到着しました。

改札を抜けると、初東北、初仙台。このときに見た仙台駅西口の光景はいまでも目に焼き付いていて、出張などで訪れるたび、受験でここに来たなあと感慨にふけるのです。といっても数秒のことですが。

チェックイン

まずはホテルに行って荷物を下ろさねば、と仙台の街を歩きました。地下鉄で二駅くらいだったと思いますが、町並みを見てみたかったのです。場合によっては四月からこの町に住むことになるかもしれませんし。

迷うこともなく、ホテルは見つかりました。残念ながら、名前を覚えていません。今の地図も見てみましたが、ホテルの運営母体は結構変わるので、全く違う名前になっているのかもしれず、特定できませんでした。

さて、チェックインです。
人生初のマイセルフ・チェックインです。
お願いしますと言ってバウチャーを出すだけのことに緊張しました。バウチャーを出す手が震えていたかも知れません。

チェックインはあっさりと済み、ルームナンバーの入ったアクリル樹脂にぶら下がった鍵をもらいました。

宿泊は受験生用パックで、旅慣れない子供のことを考えてくれていて、朝食夕食付きでした。そのクーポンをもらって部屋に直行し、ふうっと一息ついたのは三時頃だったでしょうか。

夜まで

落ち着いたら、次は試験会場に下見に行きました。
会場そのものはもちろん、交通機関の確認でもあります。幸い、迷うことなくたどり着きました。
今どきの学生だったら、伊達政宗の騎馬像の前で自撮りしているでしょう。

時間もあるのでブラブラ歩いてホテルにもどり、さっと夕食を食べました。
ホテルのクーポンを出して、デミグラスソースのハンバーグだったか何かを食べたことを覚えています。
部屋の鍵を皿の向こう側に置いて、落ち着かないなかでの、一人きりの夕食でした。

食事を終えてもまだ活動を停止するには早い時間なので、せっかく仙台まで来たのだからと周辺の通りを歩いてみることにしました。
このときに限らず、出張で訪れた土地で、時間があれば、ホテルの周辺を散策することはよくあります。
その地を少しでも知っておきたいという思いです。

仙台駅まで往復したので、二、三キロくらいは歩いたと思います。一時間弱というところでしょう。

ホテルに戻って、部屋の前に立って、はっとしました。

鍵がない。

夕食のときテーブルに置いていたことは明確に記憶していました。外に持ち出した記憶はありません。
おそるおそるフロントで聞いたら、預かっていてくれました。

なんとか事なきを得ました。

これがあって以来、宿泊先の鍵の扱いは慎重にしています。

ユニットバス

部屋に戻って、まずは風呂に入ることにしました。

ホテルで泊まるのは初めてという受験生が多いので、受験情報誌では、ユニットバスの使い方の解説が載っていることがありました。

曰く、

  • シャワーカーテンをバスタブの内側にいれろ、

  • バスタブのお湯を外にこぼさないようにしろ、

  • シャワーがバスタブの外側に漏れないよう注意しろ、

などでしょうか。

しかし解説されていないこともありました。
たとえば、身体を洗ってからお湯を張ってつかるべきか、それともいっぱいに張ったお湯につかってから身体を洗うべきか、という問題です。

前者は身体を洗い終わってからお湯が溜まるまで待ち時間が発生し、後者は汚れたお湯の中に立って身体を洗うことになり、どちらも不都合な事態に直面します。

実はこの問題は、就職してから同期とちょっと議論したことがあり、大いに盛り上がったものです。この問題を気にしているのが自分だけではないと知って嬉しかったのかも。

いつの頃からか、この問題の回答を見つけていて、「シャワーだけすませて、お湯につからないから、関係ないんです。どうせバスタブ小さいし」と一刀両断にしています。あの頃は青かったなあと思いながら。

就寝

風呂から上がって、持ってきたパジャマを着て、テレビを付けました。

このことはよく覚えていますが、ちょうど、アニメの「めぞん一刻」の最終回をやっていました。響子さんと五代くんが、幾たびかの誤解とすれ違いを乗り越えてついに結ばれ、桜の木の下で女の子の赤ちゃんを抱いているところがラストシーンです。

頬を涙が伝うのがわかりました。
感動して泣くというようなタイプではないのですが、その影響もあったかも知れません。
遠く故郷を離れ、知る人の一人もいない土地で、一人で過ごしているさみしさに、涙腺はきっと緩んでいました。

あの時のエンディングテーマは、それから何年も、ふとしたときに頭の中を流れました。

なんといっても明日は受験本番です。
かなり早い時間でしたが、スッと寝付きました。旅の疲れが、こういうときは助けてくれたのでしょうね。

【二日目】

たぶん、目を覚ましたのは六時前。

朝食が六時三十分からだったのではないかと思いますが、開くと同時に入って、ゆっくり食べて部屋に戻ります。
ちなみにこれはその後も継続している行動様式というか、性分でして、旅先では早くに寝て、早くに目を覚まし、朝食が用意されるときは開くと同時くらいに入って時間をかけて食べることが普通になっています。
普段と違う環境で、微妙な緊張があるのでしょうね、きっと。(もっとも、ときどき、朝食会場が行列になってることもありますよ)

受験

この記事は受験をテーマにしたものではないので、この日、朝から午後まであった試験のことは省きます。

試験終了後、まっすぐホテルに戻りました。試験は明日も続くので、余計なことはできません。(怪しげな店舗に誘われたのは内緒です)

昨日と同じように夕食を食べ、鍵は手放さず、部屋に戻りました。

昨日と違うのは、翌日、試験後に家に帰るので、荷物のパッキングをしておくべきことでした。

出張を何度もこなした今となっては、何も考えなくても身体が動きますが、この頃はそんなふうにはいかず、明日試験会場に持ち込むもの、旅行カバンにいれてホテルに預けておくものの二つに分けることに、えらく苦労したものです。
翌日着る服や、朝まで着ているものの扱いもあり、迷います。

そんなことで手間を取るのも効率が悪いので、ずいぶん前からですが、出張では寝間着は持っていかず、ホテルのバスローブを羽織って寝ることを基本にしています。
さらにいえば、万一何かあったときに脱出しやすいよう、最低限の着るものを手の届くところに置いています。
かれこれ、三十年やってますので、だんだんと最適化してきているのです。

この日も早くに寝ました。旅先では寝付きがいいです。いまでもそうです。

【三日目】

この日も六時前起床。

シャワーを浴びて、着替えて、荷物を片付けて、部屋を出て、チェックアウトして荷物をフロントに預け、クーポンで朝食をとり、そのまま試験会場に向かう、という手順でした。

つまりは、出発時間に合わせて朝食をとったわけですね。

いまならそんなことはせず、できるだけ早くに食べていますが、この時はまだ若かったし、普通の旅ではなかったので。

受験

試験は午前中で終わりです。

帰路

試験終了時刻は予め知らされていますが、会場を出るまでしばらく待機させられるかもしれず、その先も地下鉄がいっぱいになって乗れないかもしれない、などと考えて、帰りの切符は事前にはとっていませんでした。

あまり苦労した記憶はないのでスムーズにいったのだと思いますが、ぼちぼちホテルに戻り、荷物を受け取って、仙台駅へ移動しました。

アーケード街にいくつか牛タンの店があったことは覚えています。そういうところに立ち寄る余裕はありませんでした。いや、今の出張でもそうかも。

それはさておき、駅員さんを不必要に煩わせないよう、仙台駅の券売機で大阪までの乗車券と新幹線特急券を買いました。
行くときとは違って気楽な気持ちで新幹線に揺られて帰りました。

新幹線前後のことはほとんど記憶にありません。
本命大学の結果の方が気になっていたのか、まだ残っている試験のことで頭がいっぱいだったのか、それともほかに何かがあったのかもしれませんが、そういう出来事は遠い昔になってしまっていました。
しかしあのときの結果が違っていれば、今の人生はないわけです。やりなおしはききません。いまさらやり直したいとも思いません。すべて受け入れています。

そうこうしているうちに、新幹線は新大阪に到着しました。

十八歳には長い長い旅でした。

最後に

記憶の中で、一度、父に車で新大阪駅に迎えに来てもらったことがあります。
それがこのときだったか、それとも就職して東京から帰省したときのことだったか、よくわかりません。
新大阪駅の物陰からぬっと現れた父の姿だけ鮮明に覚えています。

その父も先日他界しました。

受験のときも来てくれたし、東京から帰省したときも来てくれたと思うようにしておきます。

しつこく最後に

結局、受験した大学には合格したものの入学せず、地元で大学生活を過ごしました。

就職は東京でした。

学生時代にはそれほど旅行らしい旅行はしなかったので、あの仙台行きが、就職するまで、一番遠くて長い旅行だったはずです。

その行程では、いろいろな経験ができました。それは血肉となって、いまの自分の基礎を形作っています。

あの旅がなかったら、職業観、人生観は違っていただろう。心の底から、そう思います。


最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。


#忘れられない旅

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