見出し画像

虹の彼方に

昨日今日コメントの書き込みをいただいて、そのひとつのご縁から、思い出した虹のお話です。

2001年のことです。もう19年近く前になりますが、父の亡くなった日までの病院の医療費を支払いに向う日の道中のことです。お通夜、葬儀と慌ただしく動いて、その後に各方面への支払いに順番に歩いていました。
この世にたった二人だけになった家族の血縁としての存在であるもう一人、それが母になるわけですが、その母はお香典をいただいた方々の名簿の整理など細かな作業など家の中でできることをしてくれていました。

入院していた病院への最後の支払いに向かっていた私ですが、ひとり車の中で突然聞こえて来た声がありました。
胸の中に、頭の中に、言葉を探すけれどうまく見つからない。
その時、私の表面の自我が瞬間驚いたっていうことがあったよ、というのが事実です。

「早苗ちゃん。ありがとうね」

聞こえたのです、すぐ側に居るような父の声で。息遣いとか気配とか、居た時のままの声に思えました。

亡くなる直前に最期の言葉らしきものも残さずに逝った人でした。常日頃からどう死ぬかは重要だと言って法華経の研究をし、父なりの実践をしていました。家族以外のたくさんの人にたくさん喋り続ける人でした。
そんな父の背中を長い間見ながらいた私。


「そこかよ」

他の何かじゃなく、私や母のこれからの先のことや心配とかじゃなく、入院費用の支払いに向かう最中の私に話しかけてきた父に、そう思いながら涙が溢れて止まらなかったのです。もう通い慣れた道を、速度を落としてゆっくりと走りました。

その時にとある自動車道を通っていたのですが、下に町が見える一段高くなって周りを広く見渡せる場所があって、ここを過ぎると病院に向かう降り口が出てきます。ちょうど差し掛かった時でした。
気が付くと目の前に大きく広がる虹があったのです。

朝から雨も降ってないけど丸ごとくっきりと虹はそこにあって、見上げながらもう説明もいらないよねと涙をこぼしながら、見にくくなった視界にさらに速度を緩めてのろのろと、誰も走っていない自動車道を降りていきました。


無事に支払いを終えましたが、それっきり父のあの声は聞こえませんでした。まだまだやることはある、しっかりしろ、って自分に言い聞かせながら、次のことへと向かいました。

財産も残さなかった父です。代わりに私名義の借金という財産を残していった人です。8年ほど完済にかかりましたが、一回も落とすことなく大金を毎月返済していきました。どうしようもなく勝手で、おっきくて、ちっちゃくて、大きな父でした。そう言えるようになるまで何年もかかりました。(笑)


その後にも何度か虹を見ました。四十九日と言われている、まだ父がこの世界に近いところにいるであろう時間内に。その度に生前言っていたことのいくつかを思い出していました。

「死んだ後どう生きるかなんだ」
「あんたはいつか、ここを離れて、東へ行けよ」

なんだかわからないコトバの意味ではあったけれど、親戚も兄弟姉妹も居ないこの場所にくくられることなく、自由に飛び出して行けよっていうことだったんだろう…そう思いながら。腹を決めて社会から離れてやってきた10年以上の自宅での24時間の介護生活と、その終わりと、自分の何ひとつ決まっていないこれから先のこととの境目にいる自分のことを思いつつ。

再びやがて自然に日常の生活が当たり前になっていった頃、気が付くと母と二人きりになって一年ちょっとが過ぎていました。
新聞社での仕事を離れて、介護の制度も仕組みも今の時代のようには無かった頃。母は働いて医療費と生活費を稼ぐことに徹し、体力のある私が心臓の難病だった父と二人向き合い続けた10年以上、その喪失感はとても大きかったのでしょう。時間が必要でした。
やがて、父が言っていたその言葉を握りしめて、次の人生の小さな一歩を進み始めた私がいました。
2003年の2月、なんの保証もない明日に向かって。

今でも虹を見つけると父を思い出します。グラスの中の氷に小さな虹色を見つけた時には、思わず乾杯。そちらは元気ですか…、こちらは無事になんとかやってるよ、ちっちゃく心の中でそう呟く私がいます。
もうすぐ忘れることの無い9月がやってくる。旅立って丸19年が経とうとしています。


写真と文 sanae mizuno
https://twitter.com/SanaeMizuno

運営の活動資金にさせていただきます。願いのひとつずつをカタチに。ありがとうございます。X.com・旧Twitter https://twitter.com/SanaeMizuno cafe prizm blog http://cafenanairo.blog87.fc2.com/