私は「性的マジョリティ」は存在すると言いたい 赤坂真理さん「愛と性と存在のはなし」について

まだ7日しか経ってないんですか…。

2021年、絶望的に長そうですね。


赤坂真理さんの「愛と性と存在のはなし」という本がある。この本はネット上の連載に一部があって、「大幅な加筆」を経て単行本が出版されたらしい。

以前にこの連載を見たことがある。とはいっても2回目くらいまでしかアップされていなかった頃に見た気がする。それは2020年1月よりは前だったはずなのでおそらくこのnoteの連載で見たのではないはずだが、果たしてどこで見ていたのかはもう覚えていない。

先日、「いな」さんという方のnoteで単行本版が取り上げられていた。それで私はこの連載のことを思い出した。

かつて男性学からジェンダー学の分野に入り、しばらく「フェミニズム」に足を踏み入れたかどうか、というくらいの頃の私は、この連載の第2回「男であることはなぜ辛いのか」を見て感激していた。

その頃の私は覚えたての「有害な男性性」を自らに見出してはそんな自分を持て余して、ネットで「男であること 辛い」などと調べ倒していた。それで見つけたのがこの記事だった。

アンチフェミとも違うが、ジェンダー学などを学ぶにつれて自分が男であることの負の切っ先を突きつけられた気分になって、「男であることは辛いんだぞ」とつき漏らすような声を探していた私にとって、男性がそういうことを言っている記事(これは本当に少なかった)と、この連載のこの回に出会えたことは僥倖だった。同情してほしかったのだろう。

やがて第3回の連載「#Metoo運動は何をめざしたいのか」がアップされた。ここにも男の弱音があって、やはり私は溜飲を下げるようにこれを読んだ。

しばらくしてからこの連載は見なくなった。その頃の私は「男性学」から離れていって、直接的な「救済」を求めなくなった。

自分のことを「マジョリティ」であると見なし、少しでも自らに知識を蓄えさせて、「マイノリティ」にとって苦しい社会のことを知り、自らを「加害者」たらしめないことを目指していった、気がする。言語化すると何となくスッキリしないけどとりあえずそういうことにしよう。

その後私は自らを「シスヘテ男性」と名乗るようにして、その「マジョリティ」性を背負うこととした。少しずつ勉強を始めた私にとって、この連載は向かう方向が違っていたから、自然と見なくなっていった。

私は「マジョリティ」を名乗っている。その理由は、自分が今のところ「マイノリティ」ではないと感じたからだった。構造的に踏み潰されてきた方ではなく、踏み潰してきた方だと思ったからだ。


いなさんの記事を受けて、改めてこの連載を見返すことにした。

なるほど。私は第4回の記事を見てドロップアウトしたんだ、と確認した。かつての私がどう思ったのかを推察すると、恋愛的な話の内容が不満だったんだと思う。今の私なら「本能」とかいう言葉が出てきた時点で懐疑スイッチオンだ。

そして何より、だからといってここに書かれていることを否定する力は私にはない。間違いだとも言えない。スピリチュアルとさえ感じられる文章は論証できない。居心地が悪くて、だからドロップアウトを選んだんだ。

改めて、少なくとも1年越しにこの連載を読み返す。ってか新たに読み始める部分のが多いわけだけども。

やはり気になる部分は多い。私の稚拙なジェンダー学的な知識と見方から言ってツッコミたいところはいくらもある。第8回なんてタイトルから気になる。おそらく私とこの連載は同一平面じゃないから、そうやって見ることは無粋なのかもしれない。それにしたって気になる部分、というかスルーしてはいけないと感じる部分は確かにある。


この連載は赤坂さんの思考実験なのだ。この方の信じるものと、感じてきたものがまとめあげられている。その感じ方は人を納得させることもあるかもしれない。感じるところのものでは。

それでもやはり、「性的マイノリティ」とか、「性同一性障害」とか、「フェミニスト」とか、「セクハラ」といった言葉の使い方を見ていると、非常に「危ない文章」に思えてならない。私が言っていいことではないかもしれないが、「ジェンダー」「フェミニズム」「クィアスタディーズ」「セクシュアリティ」についてどれほど学んでいるのかを聞きたくなる。


「ヘテロセクシュアル」は一般に「マジョリティ」であるとされる。それは人数だけの話ではない。「マジョリティ」と「マイノリティ」は人数の多寡に限らず、権力という観点から言えると思う。

性指向(連載の第1回に「性志向」という言葉が記されているが、おそらくこれは「性指向」のことを言っている)の観点。「ヘテロセクシュアル」がノーマルとされ、最も整備されている社会において、その周縁にあってアブノーマルとされるそれ以外の性指向の人々は時に存在しないものとして扱われたり、「人」たれなかったりする。

赤坂さんが言うことも、おそらく理解している。「マジョリティ」内があまりにも均質化されて扱われている。性指向の観点であれば「ヘテロセクシュアル」、ジェンダーという観点であれば「シスヘテ男性」というものが承前のものとして扱われてきたがゆえに、あまり記述されてこなかった。その内部の、一人ひとりの相違が軽視されてきたかもしれない。だからこそ私はこれまでのnoteで「私」を記述してきた。

しかし、赤坂さんがそれらをもって「性的マイノリティは存在しない」とか、「すべての人は性同一性障害である」とか言ってしまうことに対しては、はっきりと「正しくない」と、私は言いたい。「正しくない」という言葉にどんな意味合いを込めているのかというところがミソだけど。

だって厳然として「マイノリティ」とされている方は構造的な差別を受けている。私が属するような「マジョリティ」が受けたことのない、考えたこともない差別を、私が属するような「マジョリティ」から受けている。

それは「マジョリティ」の内部の相違を無視していいことを意味しない。赤坂さんの主張だって無駄ではない。

しかし「皆性的マイノリティなんだ」といって全てを埋没させるのは、私は不正義ではないかと思う。

もちろん、赤坂さんもそれを分かっていて第1回の冒頭に

「これから、とても繊細な話をしようと思う。いちばん繊細に語らなければいけないことを、わたしの持てる力のすべてをかけて、可能な限りの繊細さと大胆さで語ろうと思う。」

と述べているのだろう。

「マジョリティ」にあぐらをかきつづけるのではなく、他者を見つめる視線でジェンダーなどについて考察するのではなく、「私」をも射程にいれて考えることは価値あることだと思う。「シスヘテ男性」である「私」も、それなりにそうしてきたつもりだ。

それでも、何十、百年後に「性的マジョリティ」も「性的マイノリティ」も消失していたとしても、今、たった今、「性的マイノリティはいない」と、どんな文脈であれ言うことは、私は不正義であると思う。

もっと言えば、「たった今もなおマジョリティの特権を大手にふるって生きている私は、私個人は、絶対にそうは言いたくない」し、「この記事を性的マイノリティとされている人には薦めたくない」。


赤坂さんの言葉が「真理」である可能性もある。いつか、「赤坂さんの言ってたことだ…」ってなるかもしれない。

それでも私は、まだこの記事には賛同しないでいたいと思う。

自分なりの、「マジョリティ」としての決意として。


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