見出し画像

【プリズンライターズ】Just A Breath of Freedom 自由の空気を吸い込む時

 はじめまして。私は、LB刑務所に収監中のGanxta.3127と申します。
殺人罪で19年の判決を打たれて、現在はやっと刑期の半分を折り返したところです。
“かえるPJ”にはまだ入会したてですが、汪さん、庄子さんをはじめ、関係者皆様が私を受け容れて下さり、心より感謝申し上げます。
では、簡単に自己紹介をしますね。

 バブルの絶頂期、私は北関東の極道一家に生まれました。
母は東京中野区の暴走族、父は北関東の名門一家の組員。
ちなみに、母方の祖父は警視庁の人で、父方の祖父は某一家の総長。
2才の頃、荒れ狂う父から母が夜逃げ同然に私を連れて、家を飛び出し、寝巻き姿のまま国道に出て、偶然通った長距離トラックに乗せてもらい、着いた先は北九州市。
母はいつも家に居らず、夜の街で働き、私は見知らぬ人の家に何軒も渡り歩く毎日でした。

 小学校に上がると、母の育児放棄と虐待が酷くなり、私はおばあちゃんと暮らすようになりました。
が、病弱のおばあちゃんは入院が多く、私はまた近所や見知らぬ人の家に行くことになり、預け先の家でも酷い虐待が始まり、歯を折られる。
骨を折られる。包丁で刺される。切られる。
裸で真冬の海に落とされる。水道ホースで気絶するまで打たれる。
毎日、スーパーのチラシやティッシュを食べる。
それが何年も続き、小4位から学校も行かず、最後は児相に保護され施設へ行きました。

 何度も死にかけて、死にたいと思っても死ねない。何度も殺されかけたのに。
中学に上がり、おばあちゃんに引き取られるも、両親の不良DNAが起きたのか、元気爆発、暴走族の先輩の家に溜まり、傷害、窃盗、無免、強盗、毎日が犯罪のオンパレード。
結果、ちゃんと捕まり、鑑別、教護院に行き、退院後に養護施設に行き、すぐに脱走して「ばあちゃん!待っててなぁっ!」と一人はりきるも、道に迷った所を捕まり、何故か施設に戻らず、南の島に居るという母の元へ島流しに合い「内地の不良が来た!」と変な差別を受け、酷い暴力や不良同士の喧嘩、リンチ、母の育児放棄、親子間のカツアゲに散々遭い、中学卒業して南の大きな島に出て、暴走族、カラーギャング、右翼、組織の部屋住み、行儀見習い、彫師を独学で始めて、関西の街に出て、某組に預けられ、そこでも部屋住み入れられ、彫師の恩師との出会いにより、ヤクザの世界を断ち彫師として活動するものの、都会の魅力にヤラレて、元気一杯の私は部屋住みからの解放感に遊び倒して不良仲間が集まり、詐欺、傷害、売春グループ、ぼったくりガールズバー、等々…、国語算数裏社会をたんと学び、金を稼ぎ、タトゥースタジオOPENし、彫師としても賞を取ったり、一流の彫師達と同じ舞台に立ってイベントしたり、私生活では、女と結婚し子供も産まれて、高い車に欲しい物は大体買えて、東京にも進出したり、気が付けば自分のファミリーが出来ていて、その頃は何しても思い通りになる欲と狂乱の日々でした。

 そんなある日、私は仲間を連れて飲みに出たところ、仲間の内の女の子が喧嘩に巻き込まれてしまい、殴られ、倒されて、私に助けを求めてきて、私が彼女の元へ行くと顔面血だらけで「助けて!」と言いました。
私は完全にブチギレてしまい、「わかった。お前はここに居ろ。あいつら殺してきてやる。」
そこから、相手を捕まえて格闘の末、相手を殺しました。

 そして、現在に至ります。少し長い自己紹介になり申し訳ありません。
まあ、私は極道の子に産まれて、父は今も現役の一家の総長で、母はジャズ歌手になり、芸能界の中で教祖的な人になりました。
母とは絶縁しましたが、今も身体と心の傷は消えません。
幼い頃からとても複雑な過去を生きてきて、世間から受けた辛酸は心身の隅々にまで染みついていて、まだ、心の傷から血が出続けています。
そして何より…、人を殺した。
その命の代償と重み、塀の中で過ごすことの意味を強く感じています。
自由の代償…、すごく重いし、高いなあ…と。
でも、自分の人生はきっと間違いじゃない。

 今、こうして塀の中に居ても、喧嘩して事件送致されても、兄弟分が自殺しても、ファミリーの皆がいなくなっても、嫁と子供と離れても、妹分が行方不明になって殺された説を知らされても、懲罰28回受けても、官にいじめられても、愛人と別れても、身内に大金詐欺られても、どんなにひとり寂しくて、辛くて、切なくて、悲しくて、やりきれなくても…、私は生きてる。
生かされてる。心の痛みを、感じてる。
そして、自分が生きてく為には、この惨めな自分を愛してやらなければならない。
誰からも愛されず、愛がわからないまま生きるわけにはいかない。
だから、私はこの塀の中で、愛を学ぶために耐えて、忍んで、過去を噛みつぶさなければいけない。
失ったものは仕方ない。でも、これから先、もう2度とかけがえのない「大切」がどこか遠く手の届かないとこに行かないように。

 私は、小4から学歴止まっていて、幼少期からの発達障害もあり、勉強が出来なかったんですけども、限られた時間の中で、必死に学びました。
国語辞典一冊、全部ノートに書き写して、字の書き方も相当練習して、中国古典を読みあさり、論語を書き写し、人間学をよく学び日常生活の中で小さな実践をしたり、だんだんむずかしい本も読め、理解が出来る喜びを覚えて、ニーチェ哲学にハマり、ニーチェ全集読破して、そこからは「心理学」「政治・経済」「経営・起業」等々…、学ぶ事で知識広がり、世界の見方がガラリと変わりました。
不良の世界では、刑務所の事を「大学」と呼びますが、納得です。
ここは正に大学。獄中など、住めば都、学べば学校です。
ここは自己形成の為の福堂です。
この境遇の苦しみを知れる人間で居れること、私がこの塀の中で過ごす事は決して学校では学ぶことの出来ない人生最高の学問です。

 刑務所の中は、いつだってお互いを騙し合う真心に、棘だらけのユーモア、語るのは常にウソだらけの人間像で、面目を保つだけの手順も踏まなきゃならない、みんな見てくれとか、お金の有る無しとか、弁が立つとか…、そういう人間の見栄ばかりです。
海千山千の人物も棲息する世界のようで、この異世界はとかく狐と狸の化かし合い。
短期刑の者が長期刑の足を引っ張ることもあります。
ですが、そういう物事も全て含めて私は、日頃学ぶ事で大切に毎日を送れています。

 きっと、汪楠さんも獄中に居た頃は本をたくさん読み、学び、自分の成長へとつなげて、それが形となり、今の活動にもつながったのではないかと思います。
私は、遺族に対し弁償し続けています。この罪の中でやれる事はいつも考えてます。
正直、私にはこの償い方が正しいものかはわかりません。
どういう事が本当の償いになるのかも、わからない。
きっと、それ位に人の命を奪い、罪を償うという事は簡単には答えの出ない難しいものだと痛感します。
私は、遺族の方にこの思いを手紙しました。
するとある日、刑務所の偉いさん方に囲まれて連行された先は面会室。
「この刑務所では異例で過去にも無い対応で…」と言われて面会室に入ると、そこには…、なんと遺族の方が座っていました。
1時間50分位の特別面会の中、多くの言葉を貰いましたがその中で一言も、私を責める言葉はありませんでした。
私がよく学び、罪と向き合っている事、命を理解した事、自分の人生を諦めなかった事、そして…、私に「この罪を一生忘れず生きて下さい。」と。まるで母親の様に話して下さり、面会終えて、その日の消灯後に便所の中で涙しました。

 日本全国に務めておられる長期・無期の方々、そしてこの投稿を見てくれている社会の皆様、どうかお願いです。
いつか我々は社会へ戻ります。その時の為に学ぶ、知るチャンスを下さい。
罪を抱えて自分と戦い生きる上で大切な事です。
タイトルの「Just A Breath of Freedom」は、私の敬愛するアメリカのラッパー、2パックの詩の1つで、「自由の空気を吸い込む時」という意味です。私が自由の空気を吸い込む時、本当の償いが始まります。
私は必死に学び、こうして想いを綴ることが出来、考え、自らと向き合える様になりました。
このチャンスを与えられるのは社会の皆様です。皆様の心からの寄付により我々は本が読めます。
そこから学びが始まります。それが、償いへと変わります。
私はもっと、たくさん学びたい。人生を知りたい。償い続けたい。
社会の皆様の心と力で私達は変われます。塀の中に希望の光を与えて下さい。

 最後に、汪楠さん。この様な場を頂きありがとうございました。
出所したら、必ず会いに行きこの感謝の心を形にします。
また、塀の中の事や、様々な出来事やらを投稿しようと思います!
どうか読者の皆様、汪楠さん、PJの皆様、Ganxta.3127をあたたかく見守って頂ければ嬉しいです。
又、全国の御務めの皆様、為になる情報等々教えて頂けると助かります。
最後迄読んでくれたあなたに、心からの愛と感謝を。

【PRISON WRITERS】投稿へのサポートに関して/ 心が動いた投稿にサポートして頂けると有り難いです。お預かりしたお金は受刑者本人に届けます。受刑者は、工場作業で受け取る僅かな報奨金の1/2を日用品の購入に充てています。衣食住が保障されているとはいえ、大変励みになります。