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「小説 名娼明月」 第18話:遊女の奮起

 水陸の通路全く閉塞と聞いて、味方は困惑した。この厳重なる織田軍の警戒を打ち破りて通ること、敢えて難しと云うにあらねど、鉄砲にて船を狙い撃たれたらば、大事な俵を水底に沈められる危険がある。
 どうしたものであろうと評議最中に、石山城からの急使が来た。
 石山の急使と聞いて一同驚いたる中にも、七里三河守と窪屋一秋とは、胸轟かして使者を船中に呼び入れた。
 使者が着物の襟より取出したる手紙は、石山の軍師、飛騨守の手書である。封切り開けば、城中の兵糧全く尽きて、麦の粥にて辛くも飢えを凌ぐこと、ここに十二日。敵兵今にして乗(じょう)せば、石山城はたちまち落城するであろうとある。
 三河守と一秋は、これを読んで、ほっと吐息を吐いた。心配なのは、大阪川口より石山に至る両岸に織田勢が潜んで、こちらの船に鉄砲を放たんことである。どうしたら無事に遡(のぼ)れるだろうと、皆が頭を悩ましているとき、一秋は一議を提案した。すなわち、彼、

 「織田勢が河口を固めてから、すでに四十余日になる。必ずや今頃は無事に苦しんでいるであろう。ついては、この機に乗じて、この室の津の女郎を残らず駆り集め、船から上流の方に出稼ぎに行く体に見せかけたら、敵は必ず警戒を怠るに相違ない。このとき川口の鎖を外して、百艘ないし五十艘ずつを一組となし、毎夜石山城下まで船を運んだら、これが一番安全の策ではあるまいか。どこまでも大事なのは、川口の通過である」

 との一秋の智慮ある提議に、三河守も、すぐと賛成をした。
 よってこの議を毛利家の諸将に通ずると、血気に逸(はや)る中国武士は、

 「そんな卑怯なことをせずとも、堂々と敵を打ち破った上で進むべし!」

 など敦圉(いきま)いたけれども、三河守は、これを巧い塩梅(あんばい)に賺(すか)し宥(なだ)め、我等今度の使命は戦うにあらで兵糧を送るにあるからとて、とうとう、しぶしぶ中国武士どもを納得さした。
 室の津の女郎屋は、皆仏門の帰依者である。石山本願寺への兵糧が着いたという噂がこの町に伝わって、三河守と一秋が室の津に上陸し、女郎屋町に行って少し相談事のあるということを女郎屋に通ずれば、三十余人の楼主どもは、身に余る光栄を感じて、たちまち馳せ集まった。
 三河守と一秋が楼主らに対して、今回の計略の次第を言い含めると、楼主どもは、今度が仏恩の報じ時だと喜び、安々と請けあって自楼に帰り、抱えの女郎にこのことを話してみせると、さすがに恐ろしく感せぬでもなかったが、これも仏法護持のためである。もし万一これがために死ぬるような場合は、罪業深き女郎の身ながら、たちまち弥陀の浄土に安らかに眠ることができると説かれて、二百余の女郎はたちまち喜び勇み立つけれども、ことに一つの難役がある。二百の遊女の中に、誰か一人胆力の据わった女(もの)があって、川口の鉄鎖を外さねばならぬ。その役だに揃ったらば、もう今晩にも漕ぎ出そうということになったが、さてこれは実に難役である。そうしてまた大事な役である。女郎の中に、かかる難役を果たしうる者があろうかと、楼主らは、ここに至って、先の元気にも似ず行き詰まってしまった。
 しかし楼主よりも困ったのは、三河守と一秋である。どうかしてこの難役に当たる女(もの)を一人探し出さねばならぬと、頭を随分と悩ましてみたが、なかなかに見当たりそうにない。

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