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福岡に住む幼なじみのOちゃんからの手紙

福岡に住む幼なじみのOちゃんから、可愛らしい手紙が届いた。
私は小学校、中学校は家から一番近い地元の学校。

Oちゃんは自宅から50メートルくらい離れたお家で、毎日一緒に学校に通っていました。
小学校中学校の地元の同級生はいつの間にか疎遠になり、唯一、Oちゃんとだけ年賀状のやり取りが続いていました。

手紙は同窓会のお誘いでした。
すっごく嬉しかった。

『まりりん、お変わりないですか?
実は地元で時々同窓会をしていたのだけど、コロナも落ち着いたこの時期、担任のS先生の101歳のお祝いも兼ねて、6年5組の同窓会を計画しています。
10月15日、場所は料亭○○。なんとか来れないかな?一度連絡とりたいのでお電話くださいね。』

ああ、料亭○○は、37年前に結納を交わした場所だわ。懐かしい。。
行きたいけど、1人で同窓会のために帰省は出来ないなあ。。(1人で新幹線に乗るのさえ命懸け)

Oちゃんの電話番号が書いてある。
私はすぐに電話してみた。

「もしもし、Oちゃん?」
「えっ?まりりん?」

お互いの声を聞くのは30年か40年ぶりだ。
不思議なもので、電話を通して二人とも六年生の頃に戻っている。

「S先生、101歳なのね。みんなよく同窓会しているの?」
「去年もキミちゃんのお店で同窓会したのよ。その時の写真送るわ。あ、まりりん、ラインしている?」

話し始めたら止まらない。
想い出話に花が咲きました。

何故、今まで電話しなかったんだろう。

S先生は五年生、六年生の持ち上がりの担任で、既に50代くらいの貫禄ある厳しい、けど温かい女の先生でした。

カリスマ的な威厳のある先生で、みんな先生が大好きでクラスは良くまとまっていました。

五年生の終わりにS先生が怪我をして3ヶ月お休みになったとき、5組の私たちは1組から4組にバラバラに振り分けられました。
私はたしか3組に入ったかな?

でも、みんな5組が大好きで、毎日、中休みも昼休みもガランと机が無くなった教室にみんな集まってきては遊んだりお喋りをし、S先生の帰りを待っていました。

私はクラスで、S先生の手伝いをする学習係をしていて、よく先生に叱られて泣いていました(すごく泣き虫でした、、)。

先生が意図していることを掴むのが下手だったんだろう(今も人の気持ちを読めないかも、、)

男子も女子もみんな優しかった。

私は運動音痴だけど、みんなでソフトボールをする時など、「おーい、人形バッターだよ」とピッチャーが声をかけて、私がバッターボックスに立つとわざとボールをバットに当ててくれた。男子はほんとに皆優しかった。

「ぼ~っとしてるねぇ」と女の子たちも、よくいろいろ庇ってくれた。

時々ランドセルを忘れて、母が届けてくれるようなぼんやりした子だったけど、私なりに分析するといつも緊張マックスだったんだと思う。

私は緊張しやすくて、すぐ頭が真っ白になる。些細なことで涙が出る。
私の性格の基盤は、この頃にはほぼ出来上がっていたんだろう。

Oちゃんがラインで去年の同窓会の写真を沢山送ってくれた。Oちゃん、相変わらずの美人さん。全然変わらない。
でも、男子は誰が誰なのか全然わからないや。

「そうか、、娘さんも出産近いし、福岡に来るのは難しいね。よし、わかった。私が行くけん、東京に遊びに行く!」
「Oちゃん、ほんとに?
私、東京に住んで30年だけど相変わらずの方向音痴で全然遊びに行ってないの。一緒にどこか行きたい!」

幼なじみとの会話は心地よく、涙が滲んだ。
「私ね、ドラム習い始めたとよ」とOちゃん。私達はいつかドラムとヴァイオリンでセッションする約束をした。

今年中に東京に行くかも。とOちゃんが言ってくれた。
わざわざ同窓会の手紙をくれたOちゃんの優しさが有難い。

S先生、101歳おめでとうございます。私の中で6年5組の存在はすごく大きいです。

小学校から高校までできっと一番好きなクラスだったかもしれない。。

もう一度、みんなに会いたいな。



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