見出し画像

食べものは、「見えない」。|生きる行脚#15@大量生産・消費、経済の世の中

 僕は大学で学んでいることや「大学」という環境、自分の将来のことなど、いろんなことについてとにかくもやもやを感じていた。
 そんな中REIWA47キャラバンでの株式会社ポケットマルシェ(現:株式会社雨風太陽)のCEO、高橋博之さんとの出会いをきっかけに、大学3年生(2021年度)の1年間を休学し、日本各地で一次産業を生業とされている方の隣で一緒に作業をさせてもらう旅、「生きる行脚」をすることを決めた。
 生きる行脚とは、一次産業を生業とされている日本各地の漁師さん・農家さんのところに住み込みで1週間~1か月ほど滞在し、漁師さん・農家さんが普段やっているようなことを隣で一緒にやらせてもらう修行の旅である。
一次産業という産業のなかで物理的に命を扱ったり命と向き合ったり、一次産業を生業とされている方の生き様などを通して「生きる」とはどういうことなのかを感じたり、考えるため、2021年の3月8日(火)から2022年の3月28日(月)までのおよそ1年間、この「生きる行脚」を実施した。
 このnoteでは、この1年間で日本各地の漁師さん・農家さんのところへ行かせていただいたときに僕が見てきた景色や、僕が感じたことや思ったこと、考えたことを綴っている。


 以前、これまでお世話になった平飼いの養鶏家さん(肉用鶏じゃなくて採卵鶏だったけど)に、「平飼いだけじゃなくて、他のやり方も見てみるといいよ。」と言われたことがあった。また、「スーパーに並んでいる(一般的な大規模市場流通の中で扱われている)ような鶏肉はどうやって作られているんだろう、鶏はどうやって育てられているんだろう。」と興味を持ったこともあって、スーパーに並んでいるような鶏肉やKFCのフライドチキンの材料となる鶏を飼育しているような養鶏場さんで研修させていただいた。


鶏肉が作られるまでには

生き物を飼う「痛み」を感じながら作っている。

 僕が行かせていただいたときは、ちょうど入雛(孵化場で卵からかえったばかりの生後1日の雛を養鶏場へ導入すること。)の作業のタイミングと重なっていた。

 入雛1日目から、孵化したときに寒さにさらされたことが原因とみられる尿塩酸沈着症という病気で1日に20~30羽ほどの雛が亡くなる日が何日間か続いた。
1日に数回、作業の合間に雛の亡骸を拾い集め、亡骸を入れる袋があるところまで両手で抱えるようにして運んだ。1羽1羽はすごく小さくて軽いのに、両手にかかる亡くなった雛たちの体重はずっしりとしていた。「あとどれだけ死ねば収まるんだろう…」「見るのがしんどい…」と思い、悲しいとか寂しいといった単純な言葉では言い表せない複雑な気持ちになった。

 そこでは、1棟あたり幅15m、奥行き80mほどの大きさの鶏舎で約1万5千羽のブロイラー(肉用鶏)を育てている。それだけ多くの数を飼育しているため、病気が蔓延したときには1日に200~300羽の鶏(雛)が亡くなる日が続いたこともあったという。
場長さんは、
「可哀想だけど、弱ってる雛とか病気の雛はここへ運んでくる前に孵化場で取り除いて(はねて)きてほしい。費用とかロスの話がうんぬんってのもあるけど、ここに来てから死んでいくところを見たくないし、淘汰(病気などで衰弱して先が長くないと思われる雛の頸の骨を外してなるべく苦しまないように逝かせてあげること。)もやってていい気がする仕事じゃないっていうか、正直言えばやりたくない仕事だから。」
と言っていた。

 いくら仕事でやっているとはいえ、生まれてほんの数日しか経っていない小さな命が目の前で亡くなっていくことに対しては感情を持たずにはいられないんだな、と思った。
 

大量生産の影で


 ずんぐりむっくりとした体型の雛は”マメ”と呼ばれる。そのような雛は出荷する大きさになるまで順調に育ったとしても鶏をカットする(捌く)機械を詰まらせてしまったり通らないことから、食鳥処理場には引き取っていってもらえない。引き取っていってもらえなかった鶏は、1羽1羽、自分たちの手にかけて処理しなければならない。出荷する大きさまで成長してから手にかけると雛のときに淘汰するよりもバタバタと暴れて悶え苦しむらしく、従業員さんはその様子を見るのはとても辛いと話していた。だから、病気にかかったり弱ったりしていない雛でも、”マメ”であればなるべく早い雛のうちに淘汰してあげなければならないのだという。
 

入雛して数日後の雛。
同じ鶏のはずなのに、採卵鶏(卵を産む鶏)とは全く別の生き物なんじゃないかと思ってしまうほど成長のスピードが早い。入雛初日(生後1日)のときは50gほどの体重は、わずか48日ほどで2.5~3.2kgまでに増加し、出荷される。たった数日観察しているだけでも、「あれ?なんかデカくなった…?」となんとなく成長を感じられる。


「最新鋭」でもものすごい労力がかかる。


 生まれたばかりの雛は寒さに弱い。そのため、鶏舎内は年中室温が30℃を下回らないように保たれており、冬場には数台のガスヒーターを焚き大きなファンで暖かい空気を循環させることで鶏舎内を暖める。また、入雛するとおよそ1万5千羽の雛たちの呼吸によって鶏舎内の二酸化炭素濃度は酸素が薄くてライターの火が消えるほどまでに上昇する。
 ブロイラー(鶏肉)は牛や豚に比べると単価が安く設備の研究や改良に投資をしても採算が合わないことから、畜産の中では技術的な開発や発展が最も遅れているそうだ。だから、最新鋭のシステムが導入された鶏舎とはいえ人間の手でやらなければならない作業がほとんどで、外の気温が氷点下を平気で下回る日もある2月下旬であったにも関わらず、室温30℃以上の酸素が薄い環境で汗をだらだら垂らして息を切らしながら作業をしなければならなかった。


「見えない」ことが心を失わせている。


 スーパーのお肉売り場に鶏肉が並べられるまでにはここで書いたような様々な背景があることを知っている人は、どれほどいるのだろうか。
 消費する側にいる私たちは、作る人の気持ちや苦労も露知らず、当たり前のように鶏肉(を含む「食べもの」)を捨ててないだろうか。
 農業っていう「命」の世界には費用とか、価格とか、効率とか「経済」がズブズブと入り込み続けてくるのに、僕たちが暮らす消費や経済の世の中ではあまり罪悪感を感じることなく食べものを捨てたり、とにかく今よりも安いものを大量に作ろうとしてしていて「心」がないと思う。

 じゃあ、消費する側を悪者にすれば何かが変わるのだろうか。僕は、消費する側を悪者にすることもできないんじゃないかと思う。だって、今の日本では食べものを作っているところへ直接足を運ばなければどうやって作られているとか、食べものとはいったいどんなものであるかということを感じることはできないし、食べものに対して「生きていたもの」「命を頂戴する」という実感を持つのは難しいから。だから、こういう違和感というかもどかしさを生み出しているのは、食べものが自分の目の前に届けられるまでの流れが「見えない」ことなんじゃないかな、と思う。
 でも、こんな大そうなことを言っていても、僕も大量生産・消費という世の中のシステムの中に組み込まれて、食べものを作ってくれる人に作ることを託して生きている。だから、作り方とか流通について「あれは良い、これは悪い」とか「ああすればいい、こうすればいい」なんて言いきれることなんてないというか、そんなことを言える立場にない。だけど、もう少し食べものが作られるまでの過程とか作っている人の気持ち、食べものとはどういうものなのかということを感じたり想像することができて、命の世界に想いを馳せて食べることができるようになったら、もうちょっと温かくて、心ある世界になっていくんじゃないかな、と思う。


食べものがもっと「見えたら」いいのにな、なんてことを思った研修だった。


養鶏場のみなさん、お世話になりました。ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?