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「AIの商業利用はケシカラン」と考える人に欠けている視点

ここ最近、一部の人達からAIがかなり嫌われてきているように見えます。
中には「AIをビジネスに用いた」という理由だけで、炎上することもあるようです。

なぜ彼らがそのような発想をするのか。
彼らがなぜそのように考えるに至ったのか。
だとするとAIとは、どのように利用されるべきなのか。

今回はそういったところを、私なりに考えていきたいと思います。

――いつもお読みいただきありがとうございます。
または初めての方も、この記事を見つけてくださって嬉しいです。

私は都内某所でエンジニアなどをやっております、中島と申します。
ここ最近、猫ミーム動画に少しハマっています。
家族は「ブームはとっくに終わったのに」とか言いますが、まぁ、いいじゃないですか。

この 絶対バグらないシステム作ろうぜの会 では、バグの出ないシステム・問題を起こさないチーム運営・AIには作れない設計論などのコラムを、なるだけ面白く・分かりやすくお伝えする主旨で記事を配信しております。


1. 悪いAI製品はある。でもそれってAIが悪いの?

世の中には、AI製品を特に強く毛嫌いする人もいます。
中には、本にたまたま掲載されていたイラストがAI作品じゃないかどうか、本当に必死になって調べようとする、なんて人もいるようです。

そういう人は、おそらく過去にAIの被害に遭った人ではないでしょうか。
粗悪なAI製品を騙されて買った。
AIにアイデアを盗まれた。
などなど。
そのような人は、当然ながら「AIのビジネス利用は全て止めるべき」という立場をとります。

もちろんその意見自体はあくまで極論ですので、すぐさま採用すべき案ではないものの、AIを推進する人達が書いた記事の中にも、ちょっと首をひねらざるをえない文面が出てくるケースがあるのも確かです。

一般に、AI製品の利用に関する是非を問うた記事を見ると、その結論が『気をつけて利用しなければならない』だけで尻切れトンボのように終わっているものをよく見かけます。
もしかすると私の探し方が悪いだけかもしれませんが、個人的に普段からブラウズしている範囲では、『AI製品に責任を持つのは誰か』に言及した記事が本当に少ないんです。

まるで社会全体が、責任というもののない、無責任な製品づくりを推進しようとしているかのようです。

作った製品に “責任がない” なんてありえます?
ないでしょ?
生産者とは、商工業製品・アミューズメント・その他のジャンルを問わず、常に必ず “自分の製品に責任を持たなければいけません”。

AIは、その出力結果に “責任” を持ってくれません。
あくまでも社会の一般平均レベルのクオリティのものを、演算で求めた結果として出力しているだけです。

それをビジネスに活用するのであれば、AIの出力に責任を持つのは生産者側の義務です。
これは、“部下のアウトプットに責任を持つのは上司の仕事” と言ってるのと全く同じです。

ですので本当に悪いのはAIが存在することではありません。
その出力結果に責任をとろうとしない人がいることです。

そういう人達はAIの登場以前からいたし、なんなら人類史上ずっと社会の中で常に一定数いました。
そのような業者が、現時点では無責任なAI製品を量産しているだけです。

ゆえに、そのような業者を糾弾することもなく、AIの存在是非にばかり目を向けている人は、
つまり、“そういう業者の目くらましにまんまと引っかかっているだけ” ってことになるわけです。

2. AIは“責任をとる”ことができない

「AIにできて人間にできないことは?」と聞くと、たまに「もはやない」または「いずれなくなる」と答える人がいますね。
これは ありえない と断言できます。

なぜなら、上述の通り、AIはたとえどんなに発達しても、その出力に責任を持つことができないからです。

製品に責任を持つとはどういうことか。
それは、自分達の製品の確実性を保証すること。
つまり、「自分が作り手になりたい。人様の役に立ちたい。その結果、評価や収入を得たい」という “欲望を持つ” ってこと。

人間は、生み出したいという欲望があるから、その行動に責任を持つ必要が出てくるんです。

“欲望” と “責任” は常に必ずワンセット。
ですから、欲望というものがないコンピューターには、必然的に責任なんてものはないわけ。

そう――。
コンピューターには責任はないんです。

もちろん中には、「でもでも! いずれそういうAIが作れるかもしれないじゃん!?」と思っている人もいるようです。

が、その人は単にターミネーターの見過ぎ。
もしくはマトリックスでも Vivy でもいいんだけどさ、そもそも責任をとれるコンピューターが “作れるかどうか” は関係ありません。
そんな人類の存在意義を脅かすようなものを、人間が作りたいと思うかどうかです。

そんな人間、未来永劫絶対現れるわけないでしょ。
仮に現れても、周りから『変わり者』のそしりを受けて社会のすみっこに追いやられるだけ。

人類を滅亡させる発明が可能かどうかでいえば、とっくの昔にできるようになっています。
アインシュタインが E=mc² を作ったときに。

なおかつ、欲望を持つコンピューターについても、作れるかどうかでいうならすでに作れはするはず。
あくまで理論上ですが、今までのAI全てを巧くつなぎ合わせれば、理屈の上では作れるはずです。

ただ、そのようなAIを現実にして世に解き放つ意味が “人間側にはない” だけです。

なぜなら
「ものづくりしたい」
「作った製品を世の中に認められたい(=その製品の責任を持ちたい)」
といった感情は、あくまでも人間の根幹欲求の1つだから。

これをコンピューターに移譲するってことは、“食欲” “色欲”といったものをコンピューターに移譲するのと同じ。
常識で考えて変な話です。

大事なのは、もし今後AIを積極的に使う仕事に携わるのであれば、人間はAIが作ったものに責任をとる立場に立たなきゃいけない、ってこと。
ただの無責任な利用者ではダメなんです。

3. AI製品に人間が責任を持たないとどうなるか

現在のAIは、世の中の “平均的なクオリティ” の出力を行う仕組みです。
そういう仕組みであることは、ChatGPT が最初に発表された時点(あるいはそれよりはるか以前)ですでに明らかになっていました。

ですので、文章・絵・音楽の出力も、世の中の平均値程度の出来栄えになります。
つまりAIから全面的な恩恵を受けるのは、あくまで “平均以下” のアウトプットしかできない人達だけってことになります。

そこを脱却するには、AIの出力はあくまでパーツであって、製品全体に責任を持つのは自分自身、という立場に立つことが重要です。

なぜなら、「作りたい」「生み出したい」はあくまで人間側の欲求であって、それは人間が自分の手で叶えるしかないことだからだと、私なんかは思うわけです。

ではまた。

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