『ノルウェイの森』と「流動体について」インターテクスチュアリティ考察1

『ノルウェイの森』は村上春樹による1987年に発表された長編小説である。37歳の青年ワタナべによりそれは語られる。彼を巡る10代後半から20代の苦々しくも、彼に"haunted"(取り憑いて)逃れることのできない記憶が。

よくあることと言ってしまえばそうなのだけど、10-20代の取り返しのつかない人間関係と自分自身のふがいなさは、きっと多くの人の20代後半以降を苦しめ続ける。そして人は、そのもう戻れない甘くて苦いトラウマ(心理的外傷)とも言えるよな、自分に降り掛かったし、自分が引き起こした問題を語らずにはいられない。なぜなら、それこそが「現在」の自分を構成する主軸であるから。

『ノルウェイの森』第一章では「僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機は分厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しよとしているところだった。」と始まる。おなじみの「やれやれ、またドイツか、と僕は思った。」という村上文法がその後に続く。しかしこの論考で最も問題となるのは以下の段落である。

「飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天上のスピーカーから小さな音でBGMが流れはじめた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの「ノルウェイの森」だった。そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。」

「僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのままじっとしていた。やがてドイツ人のスチュワーデスがやってきて、気分がわるいのかと英語で訊いた。大丈夫、少し目まいがしただけだと僕は答えた。」「本当に大丈夫?」「大丈夫です、ありがとう」 と僕は言った。僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。」

ワタナベは、飛行機が空港に着いたというある旅の始まりもしくは終わりに自分がこれまで飛んできた最も苦しかった旅(トラウマ)を回想する。機内では人は、思考する純粋な記憶媒体となり、自らの中を巡らずにいられないのだ。

その空港がある場所に着いたという状況において、人が漸く語っても良い頃合いであろうという過去について語り始めるその状況設定と思考のプロセスに類似するのが、小沢健二が2017年2月22日にCDで発表したシングル「流動体について」(B面は「神秘的」)である。

シングルとしては2010年に配信された「シッカショ節」以来6年ぶり、CD媒体としては「春にして君を想う」(1998年)以来19年ぶりの、小沢健二が「日本に軸足を置いて活動することを決めた」幕開けとなるような作品。

長らくアメリカと日本を行き来しながらも、日本の音楽シーンには「流動的」に現れては消えていた小沢健二が腰をすえて何かを発信するという大きな節目となる、彼の再始動を位置づける作品でもある。

村上春樹が『ノルウェイの森』の冒頭において、飛行機が到着し、自らにhaunted(取り憑いて)して離れない過去を回想して目まいがしていたのとは対照的に、小沢は「流動体について」の冒頭で、「僕」という視点の過去を以下のように提示する。

「①羽田沖 街の灯が揺れる/ 東京に着くことが告げられると/ 甘美な曲が流れ/ 僕たちはしばし窓の外を見る // ②もしも間違いに気づくことがなかったのなら ?/ 並行する世界の僕は どこらへんで暮らしてるのかな / 広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど // ③ 神の手の中にあるのなら / その時々にできることは / 宇宙の中で良いことを決意するくらい」(数字は連の数)

ワタナベの目まいとは裏腹に「流動体について」の「僕」は過去をはっきりと「間違い」と切り離せている。ただ、それでも「並行する世界の僕」という、過去の「僕」と現在の「僕」の間に生じた齟齬=「間違い」をつなぐ、自分の現在が絶対存在ではないという留保(仮定)も置く。しかし、ワタナベと違うのは、その「過去」の「僕」は「現在」の「僕」に襲いかかるトラウマとはならない。ように見えるが、本当にそうだろうか?

「流動体について」の四連目において小沢は以下のように「僕」に言わせる。

「④雨上がり 高速を降りる / 港区の日曜の夜は静か / 君の部屋の下通る / 映画的 詩的に 感情が振り子降る」

初めて登場する「君」の「部屋の下を通る」瞬間、車であっという間のはずなのに「感情が振り子降る」。第三連では 「③ 神の手の中にあるのなら / その時々にできることは / 宇宙の中で良いことを決意するくらい」と瞬間瞬間の最善を尽くせばよいとなかば諦観とも取れるくらい冷静だった「僕」にその諦観はない。「映画的」=ドラマティックに「詩的」=哀感を持って「僕」の「感情」は揺らされるのだ。「流動体について」の第一連から第三連までの静かな諦観から一点する第四連に描かれる現在の「僕」を襲う過去の「君の部屋」と過去の「僕」との間にあったなにがしか。これは『ノルウェイの森』冒頭においてワタナベが目まいすらおこしたトラウマによる甘い苦痛に近い切なさや苦しさそしてそこに浸りたい感傷的な自分が見受けられる。ここを比較すると機内で目まいを起こし、自らの傷の深さに自覚的でそこに耽美したがるワタナベのほうが、もしかしたら、傷との向き合い方に素直なのかもしれないと感じてしまうくらい「流動体について」の「僕」の傷もまた癒えてはいない。第三連において「宇宙の中で良いことを決意するくらい」とできることはその時のベストを尽くすしかないとわかっているからただ過去に耽美しないだけであって、人間の自然な心の動きとしては、過去の瞬間にまだ "haunted"取り憑かれている。更にそこに憑りつかれてはいけないという美学もあるようだ。

「流動体について」における「過去」にはとらわれない美学が俄然生々しさを帯びて、現在の自分だけを見つめようとする理性的な姿勢が崩れそうになるのが第五連から第七連となる。

「⑤ もしも間違いに気づくことがなかったのなら ?/ 並行する世界の毎日/ 子どもたちも違う子たちか?/ほの甘いカルピスの味が不思議を問いかける//⑥だけど意思は言葉を変え/言葉は都市を変えてゆく/躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼/彗星のように昇り 起きている君の部屋までも届く// ⑦それが夜の芝生の上に舞い降りる時に / 誓いは消えかけてはないか?/深い愛を抱けているか?/ほの甘いカルピスの味が 現状を問いかける」

人間は現在の自分がどれだけ満足していようと、過去の自分と現在の自分との答え合わせをせずにはいられない。単純にあの時もしこうなっていなければと仮定してみたり、現在地点にいる不思議を感じたりする際に、必ず引き合いに出されるのは過去の美しくも苦い、現在ならしなかったであろう数々の選択である。「流動体について」の「僕」は、「もしも間違いに気づくことがなかったのなら ?」(現在では行わないような価値判断で過去のまま動いてしまってたら)「子どもたちも違う子たちか?」(現在の子供たちとも会えなかっただろうし、そもそも「過去」の「僕」が生きるパラレルの世界での「こどもたち」すら違うパートナーとの間にできた授かりものであると、第四連の「感情が振り子降る」結果として、第五連では「過去」の自分が選んだ人、自分がそのままその人との未来を選んでいたならという「仮定の未来」と「現在」の「子どもたち」を比較するまでになる。「子どもたち」という、自分とパートナーの人生だけでは責任のとれない創造を世界に行ったという意味では自分の人生の創造主を自分とするならば、まさに神の悩みとでもいうような、「現在」の天地創造は果たして本当に「正解」といいきれるか?という重責や迷いも見える。そしてすかさず第三連までの「その時々にできることは / 宇宙の中で良いことを決意するくらい」という理性が第六連で第五連の生々しい告白を論破する。

何だか長くなったので続きますwww






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