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都合の良い考え。

2015/03/20

出逢うのが少し遅かったかな?なんてことは
思わないことにしている。
何に対しても。

人だって何だって、
出逢えた時がきっとお互いにとって
ベストなタイミングなのだ。

そして必要な出逢いは、
どれだけ生き方の要領が悪くたって、
ベストな時にちゃんと絶対与えられる。
と、私は信じている。

都合よく考えられるなら、
その考え方でいくことにした方が幸せだ。笑

学生の時は、
休み時間でも、遠征の移動中でも、
隙あらば寝ていた私に、
「君、そんなに寝てばかりいたら人生損するよ」と
真顔で先生に言われた笑。

別の先生には、
勝てる試合で逆転負けをしまくる私に(メンタル弱いw)
「お前、もう練習来んでいいから
寺行ってこいっ!!!怒」と言われた。
(そして今、ある意味インドの寺に行っている笑。)

普段も負けん気とかもあんまりないし
いまいちのんびりしているからか、
似たようなことを色んな大人から
よく言われ続けてきた。

確かに、ボーッとしてる間に
色んなことがスルーされまくって
きている気もしなくはない。
こうして呑気なことを考えている間も、
同年代の人達は色んなことに
必死に取り組んでいる気もしなくはない。
そして着々と何かをゲットしてっている。
人生における色んなことに
もっと要領の良いやり方がある気もするし、
人間関係においても、
もしかしたら色々気付かず
スルーしているかもしれない。等々。

そもそも私は、
魚がするする通れるくらい大きく穴が開いた網で
「わーい!!!でもさ、何か魚とれないね?」
「いや、普通にとれるでしょ。」
「え?じゃあなんで私とれないの?」
「‥‥。」
ってな感じで
呑気に生きてる気がしなくもない。

でもまぁ、そんなことは気にしない。
もう少し早い時期に出逢っていたかったなーと
思うことも正直あるけれど、
その頃じゃなくて今ってとこに、
大切な意味があるのだろうし。

そう考えると目の前にいる人が無性に素敵に見える。
もう大人だからこそ、
お互いそれなりに
色んなことをそれぞれ経てきているだろう。
その上で、偶然とかタイミングとか
色んな要素が重なって”こうして今出逢えたんですねー”
なんて思うとかなり素敵なことじゃないですか?

だって私みたいにぷらぷら歩いてきてる人間は、
もしかしたら昨日の一歩を
左じゃなくて右に曲がっていた可能性もある訳で、
そうしたらきっと、
出逢えてなかったよねなんて思うことは結構あるから。

子供の頃の出逢いって、
自分の動きとはあまり関係ないところから
生み出されていた気がしますが、
大人になってからの出逢いって、
自分の"今日"に呼応していて、
だから"御縁"というものについて考えずにはいられません。
一体どこでどう、
出逢う仕組みになっていたのか、教えてほしい。

だからじゃないけれど、
そう考えると、一つ一つの出逢いというものは、
さらにそこから御縁あって関わりあうようになった人というのは、
不思議な絶対感というか、
根拠のないどんぴしゃ感があって、
そこにいて一緒に時を過ごしているだけで
実は私はすごく喜んでいる。
長く続く出逢いも、
ある程度の期間の人も、形に関わらず、
時間を共有できたこと自体がまずとても嬉しい。

今ここに来たから会えたんだぜー!っていう
ちょっとした実感は、
自分が"今日、今ここにいる"ことの喜びを
噛みしめさせてくれる大きな要素になっています。

日々の歩みだって、
もしかしたらどこかで間違えてきたかもしれないし、
やっぱり私はちょっとぼーっとしてるから、
今日の一歩も間違えているかもしれない笑。
でもまぁそんなことは大した問題じゃない。

この人達と出逢えたこと、
楽しい瞬間を共有できた/できている事が
嬉しいからそれで全然いいや!って思う。

足りていないと思う状態も、
遅かったり早過ぎたりしたと思う出逢いも、
今日の状態も明日の状態も、
良くても悪くても、
きっとそのままでベストなんだろう。
だからその辺のベスト具合は
神様にお任せしておく。

色んなことにあまり感傷的にならず、
まぁこれくらいの大雑把さでいくことが、
幸せな思考回路なのではないかと思ったりね。

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