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真の幸福とは。

誰かの幸福は、知らない他の誰かの犠牲によって成り立っているのかもしれない。

親子関係で考えると分かりやすい。
子供が何不自由なく暮らせている場合、親の労力によって成り立っている。
あなたが境遇に恵まれていると感じているならば、その恵まれた境遇に与れなかった人がいる。

道端のホームレスは、僕やあなたと無関係ではない。
勝者がいれば敗者がいるという、当たり前の話をあえて述べたい。
逆に、あなたが不幸であるならば、そのお陰で幸せな人がいるのかもしれない。

そもそも、幸福なる価値観は、主観的相対的な概念であって、それ自体に客観的な意味はない。仮に、不幸の末に、自殺や争いがあるとすれば重んじるべきだが、必ずしもそうではない。

つまり、100もなければ0もなく、程度の差に過ぎない。
せいぜいの最高得点は50ではないか。
事実、何かを得れば、何かを失う。

物質的な幸福は、時が来れば、いとも簡単に失われてしまう。
戦争、災害、事故、病気、死別、心変わり。
命をかけて取り組んできた物事が、一瞬にして消えることがある。
人生とは、なんと無情なのか。

では逆に、何の問題も起きず、何も失われない状態が幸福なのか。
しかし、僕の経験上、往々にして、そういった人からは活気や意欲が感じられない。公務員を見てみよう。

では一体、真の幸福とは何でしょう。

経済や仕事がうまく回ることなのか。
人間関係に恵まれていることなのか。
健全な家庭があることなのか。

神の言葉である聖書には、どんな幸福論が書かれているのだろう。
聖書に書かれている「幸い」を見てみましょう。

貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである(からです)。
今飢えている人々は幸いである、あなた方は満たされる(からです)。
今泣いている人々は幸いである、あなた方は笑うようになる(からです)。
人々に憎まれるとき、また人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなた方は幸いである。
その日には、喜び踊りなさい天には大きな報いがある(からです)。
この人々の先祖も、預言者たちにおなじことをしたのである。」

ルカによる福音書 6章 20節~

これは、一般的にも有名な山上の説教と呼ばれるイエスの言葉。
さらに、こう続く。

しかし、富んでいるあなた方は不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている(からです)。
いま満腹している人々、あなた方は不幸である。あなたがたは飢えるようになる(からです)。
いま笑っている人々は不幸である。あなた方は悲しみ泣くようになる(からです)。
全ての人に褒められるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。

ルカによる福音書 6章 24節~

見事な対比によって、この世とは真逆の価値観が語られています。
しかし、これは、クリスチャンのみならず、多くの人が実感しているのではないでしょうか。
一見矛盾する、満たされないという幸福

夢が叶う前と叶った後、どっちが幸福でしょうか。
「こんなはずじゃなかった」と、後悔してしまったことはないでしょうか。

基本的に、希望は成就してしまうと、綿菓子のように溶けてしまいます。
よって、真の希望とは、生きている間には絶対に成就されないことが条件になるようです。それはつまり、永遠を意味します。

これらのイエスの言葉は、様々な解釈がなされていますが、この文脈においては、生前と死後の状態の対比を指していると考えてみましょう。

あなたは有限と無限のどちらを選択しますか?という問いと言えます。
さて、あなたはどちらを選びますか。

「あなた方は地上に富を積んではならない。
そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
富は、天に積みなさい。
そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
あなたの富のある所に、あなたの心もあるのだ。

マタイによる福音書 6章 19節~


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