◇飯島貫実師との出会い③◇仏教ヨーガ入門
貫実先生の「ヨーガ革命」は、4部作になっています。結構、読みにくいかもしれないのですが、この「仏教ヨーガ入門」は、他のに比べて、読みやすいです。この本の改訂版の表紙は、亡き主人(画僧)の50号の絵(現在友永ヨーガ学院所蔵)が使われました。
主人は、中学の美術の教員を辞めた後、絵描きを生業としていました。ある時、貫実先生が、僧籍を取りたい人を募りました。その時、4人の人が名乗りを上げました。僧籍といっても簡単には取れず、身元引き請人になってくださる住職さまがいないとなれません。
その当時、立派なお寺の住職のお弟子さんおふたりが、名乗りをあげた4人を、2人ずつ面倒をみてくださることになりました。
貫実先生はロサンゼルス在住でお寺を持っていなかったので、日本にいらっしゃる時は、いつも玄明先生のお寺さんに滞在しておりました。うちの旦那は、その玄明先生のお世話になりました。
そして、何年か、かかって、最終の修行は、頭もひげも丸めて、身延山に何ヶ月かこもっていました。ちょうど御巣鷹村に日航機が墜落した事件のあった年でした。
なんと、僧籍に入ると、元の戸籍の名前まで変わります。(しばらくは母親に言えずにいましたが…)他の3人は、貫実先生の「貫」を用いた僧名、貫正さん、義貫さん…とか、なのに、うちはもとの名前の「治男」の「治」→「春」にして「玄春」(げんしゅん)になりました。
というか、本人が画号にもなるので…と言ってお願いして、心の広い玄明先生は普通は日蓮宗では、「春」という文字は、あまり使わないらしいのですが、天職は絵描きさんだからと快諾してくださいました。(歳が一つ違いくらいで、「同じ時代を生きていることが嬉しい」とよく言っていました‥)
主人は貫実先生には、しょっちゅう質問していて、私は、いつもヒヤヒヤものでした…可愛くない弟子だったと思います。心から尊敬していたのにうまく表現できなかったようです…
主人は学生運動をしていて、マルクス主義の勉強もしていたのに、ある怖い現象を経験したときに、おばあちゃんがよく唱えていたらしい『南無阿弥陀仏』と唱えたら、その現象がスーと収まったそうで、それからこれはなんだということで、『南無阿弥陀仏』→マントラ→真言→真言宗→曼荼羅…みたいな感じで、探求の旅が始まったそうです。
日蓮宗よりも真言宗の方が好きだと言ってましたが、ご縁がなければ、僧侶にはなれませんでしたし、僧侶の勉強は、仏教全体を学ぶので、とても良かったそうです。(曼荼羅の絵の作品が結構あります。)
なので、僧侶にはご縁があったのかもしれませんが、お墓は怖いし、あっちこっちスケッチ旅行に行くので、お寺を持って定住するのは無理でした。よくお寺さんの忙しいときに、玄明先生のお寺にお手伝いに行かせていただいていました。
一度、京都の嵐山の近くのお寺さんに僧侶として、養子にはいる(?)お話がありましたが、丁重にお断りしていました…(私は京都〜〜住みたい〜と思いましたが、結局その後、インドに何回も行っていたのは私の方でした…)
本当に、好き勝手ができたのは玄明先生のおかげです。そして亡くなってからも、玄明先生のお寺の歴代上人のお墓に入れていただき、なんと、貫実先生のお隣におります。なんともすごいご縁です。喧嘩してなければいいのですが…
話は変わりまして、私は、毎朝6時からハーブファスティング クラブ内で、朝エナジー「朝ヨガ×禅呼吸&瞑想」をやらせていただいているのですが、先日、織田代表との対談で、ヨガマットの質問をくださった方がいらっしゃいました。
「昔はヨガをする時、ヨガマットはまだなくて、タオルを敷いていて、たたみかたもあるんです」とお話ししたら「へ〜?」とのことでした、証拠写真がありました〜。
このタオルは、貫実先生の考案で主人が描きあげて、作られました。もうどこにもないと思いますが、うちに、一枚、40年ひっそりと存在しております。肌触りもいいし、大きさもいいし、色合いもデザインも素敵です。何枚か余分に買っておけばよかったです…
対談時に、「敷物は結界になります」とお話ししましたが、このタオルはちゃんと四隅に四天王のマークが描かれていて、真ん中の蓮の花の中に座っていると、本当に落ち着きます。
(次回は貫実先生と韓国に布教に行ったお話しです)
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