「即」という名のアポリア 第0回

 私という人間が生まれるまでに、この天地は無限の時間を経過している。私が死んだ後も、また無限の時間が流れてゆくことであろう。してみれば私という人間は、無限の天地と無限の時間の流れに浮かぶ一点にすぎない。
 このわずかな数十年の命しかない一個の人間が、広大きわまりない天下の乱れることを憂えるのは、あたかも黄河の水の流れが少なくなったことを悲しみ、その涙で黄河の水を増やそうとするのに似てはいないだろうか。三日の命しかない蜉蝣(かげろう)が、三千年の寿命をもつ亀のために長命法を心配してやったとすれば、きっと物笑いになるにちがいない。
 してみれば、天下の乱れなどは憂えず、ひたすらに我が身の治まることを楽しみとする者であってこそ、はじめて永遠の道を語る資格があるといえよう。(『淮南子』詮言訓)

 正義の味方の存在を信じなくなったのがいつのことかは忘れた。しかし悪者はどこかに居ると思っていた。悪いことが起こるのは、「あいつのせいだ」と指差すに足る悪い奴がどこかにいるからだと信じていた。悪者の不在は、正義の味方の不在より千倍も万倍も悲しかった。(『イリヤの空、UFOの夏』)


 のっけから非常にイタくて恥ずかしいことを申し上げると、かつて私は、ツイッターで「政治系アカウント」として振舞っていたことがあります。
十字軍の遠征や応仁の乱よりも不毛な罵り合いの言葉や、政治に絶望(?)した者たちの言葉が、次から次へと一日千秋のごとく流れてくるSATSUBATSUとしたタイムラインを、惰眠を貪り酒をかっ喰らいつつ眺めながら、「西部邁と呉智英のあいのこ」のように振舞ったり、いわゆる「反緊縮」に賛意を示すなどしておりました。

 ひとたび自分のつぶやきがリツイートによって拡散されまくったり「いいね!」されまくったりフォロワーが激増したりすると、「確変」とかいうのに入ったようでありました(自分は世でパチンコとかパチスロとか呼ばれているものをほとんどやったことがないのでよく知らんのですが)。当時「ツイッターはインテリのパチンコである」なんていう説があったようですが、それはある程度は正鵠を得ていたのかもしれません。

 しかし、そうやって政治や経済や社会について話そうとすればするほど、自分の中に違和感や齟齬が醸成されてゆきました。それは、「政治にゼツボーした」とか「言論は虚しいと思った」とか、そういうレベルの問題ではありませんでした。

 自分が今まで漠然と考えていた問題は政治や経済の言葉では絶対に解決できないのではないか。もし仮に、良き政治によって世の中がうまく回り、経済が繁栄を極め、社会問題が解決してこの世が天国に近づいていったとしても、この自分の問題は決して解決しないのではないか。自分は10代の頃から思想とかいう言葉で呼ばれているものに興味がある人間だったけど、自分は政治や経済や社会の問題について考えたいから思想に興味を抱いたのではなかったんじゃないか。自分の問題は天下国家の問題とは別なものなんじゃないか。そんな考えが隙間風のように己にさしこんでくるようになったのです。

 私に(10代の頃から)漠然とつきまとっていた問題というのはこういうものです。自分であれ、自分のことを知っている人であれ、いつかは死ぬ。百年もすれば、自分のことも彼らのことも、誰も覚えてはいない。学校の教科書なんぞに載っちゃうような人であれば、百年を数千年だか数万年だかに無理矢理引き延ばすこともできるかもしれないが、いつかは忘れ去られることに変わりはないのだから本質的には同じことだ。誰もがいつかは死ぬし、生きた痕跡もいつかは消えてなくなる。何を築きあげようともいつかはすべて消えてなくなる。それなのになぜ学校に行ったり受験をしたり就職したり会社に行ったり結婚をしたり世が世なら戦場に行ったりするのか。なぜ生きるのか。

「入試に合格するのがゴールじゃない」とか「就職がゴールじゃない」とか「結婚・出産がゴールじゃない」とか「定年がゴールじゃない」とかいった言葉を聞くことがあるけど、では何がゴールだというのか。どういうわけかでこの世に存在してしまい、何が目的なのかも何がゴールなのかもわからぬままに走り続け、やがてはモウロクしたり癌になったり脳卒中になったり半身不随になったり寝たきりになったりしてわけのわからぬままに死んでゆく。なぜこんなことになっているのか、なぜ生きねばならないのか。私の問題は、自分の生死を巡る、考えたところで腹がふくれるわけでもゼニが儲かるわけでもない問題でした。

 今ここに百人の人間がいるとしましょう。世がうまく治まれば、そのうちの九十九人は助かるでしょうし、それはいいことでありましょう。でも、それでも救われぬ一人は必ず出てきます。この世には政治や経済や社会や国家や福祉といった次元では解決できぬ問題が間違いなくある。その最たるものが、「自分は有限の存在であり、いつかは死ぬ」ということです。

 ほとんどの政治思想や社会思想や倫理思想は、おのれの「実存」(このカビの生えたような言葉には、マルクス主義みたいな面倒な文脈がいろいろとこびりついているし、どうも変な誤解を招いてしまうかもしれないからあまり使いたくないのですが、他に適切な言葉が思い浮かばないのでやむなく使用します)を巡る問題については語っていません。倫理思想というと、いかにも自分の内面に関わることのように見えますが、実は外側のことしか考えていないのです。それはあくまでも「他人や社会とのかかわりの中でどう生きるべきか」という話ですから、生老病死の苦しみや自分の生死の意味づけや「実存」の問題に答えることはできないのです。

 そんなことを考えているうちに、冒頭に掲げた『淮南子』の一節に共感する気持ちが大きくなっていきました。言うまでもないことですが、ここに出てくる「ひたすらに我が身の治まることを楽しみとする者」というのは、単なる自己中のことではありません。これは、たとえて言えば、「2500年前のインドに王族として生まれ、何不自由ない生活を送っていたにもかかわらず、女房子供を捨てて出家し、悟りをひらいた非凡なエゴイスト」のような人のことを言っているわけです。

 中国思想史においては、仏教は「ひたすらに我が身の治まることを楽しみと」し、自分一個の救いだけを求めており、天下国家のことには無関心な
利己主義だという非難が、特に儒教の側からよく出てきます。要は「宗教はアヘンだ」というわけです。確かに、俗世間から出家し、おのれの生死を乗り越えようとする釈迦の教えは脱社会的なところがあるし、釈迦の人生ひとつとっても利己主義的であるというのはまあその通りではあります(注)。

 しかし、この「宗教はアヘンである」ということは、もっとよく考えてみる必要があります。というのは、「一人ひとりがもっと政治や経済の問題に関心をもつべきなんだ、利己主義はいけないんだ」と言って「修身斉家治国平天下」の論理を語る政治的人間たちは、我が身を治める方法を語ることは絶対にできないのです。『淮南子』が言う「我が身の治まること」は個人の深奥に根ざした問題であり、どんなに政治や経済や社会がうまく回ったとしても解決できない問題です。

 人生には国家や政治や経済や福祉や自由や平等や愛国や人権や生活水準の向上、といった次元では解決できぬ問題がいっぱいあります。特に、人間がいつかは死ぬという運命を背負わされているという事実は、集団の力ではどうにもならない問題です。人間の生死は、個人を場として現れます。山のような財産を築き名誉を得た人も、学校の教科書に名前が載っちゃうような偉大な人物も、誰からも忌み嫌われるような極悪人も、いつかは死ぬ。いかなる人間もいつかは死ぬし、人間によってつくられ築き上げられたものは、それがいかなるものであってもいつかは滅びる。政治的あるいは経済的に得られたものはそれが何であれいつかは必ず失われ、それを得ようとする夢や希望は最後は必ず裏切られ打ち砕かれる。

 それにもかかわらず政治的な言葉は、「人間社会はこのようにあるべきなのだ、この理想を実現すべく行動し、その障碍となる敵(?)を倒し、社会貢献(?)をするのが人間の正しい生き方なのだ」と声高に叫ぶ。そうやって提示された「正しい生き方」や「人生の目的もどき」によって、己の生死をめぐる問題をも解決できるかのように偽装してみせる。本当は自己の外側のことしか語っていないのに、それでもって自己の内面の問題も解決できるかのように騙ってみせる。政治の言葉は、“現実”――本当はそういう言葉を吐く者がこれこそが現実だと騙ってみせる「もの」――を見ろ、“現実”に精神を傾注せよと激越に叫んで人を扇動することを通じて、重大な問題を――己の生死という永遠の問題を――人間の脳裡から忘却せしめる。政治はアヘンである。

 誤解のないように大急ぎで付け加えておかねばなりませんが、私は、人間は政治に背を向けて生きるのが正しいとか、人間が政治から逃れるのは容易であるとか、政治は絶対悪であるとかいったような安直なことを言いたいわけではありません。悲しいことですが、人間が二人以上存在するところには政治が存在してしまうことは避けられない。
 国会がどうのとか、選挙がどうのとか、ミンシュシュギがどうのとかいった「大文字の政治」だけが政治ではありません。お茶の間で家族がテレビのチャンネルを巡って争う(今でもそういうことがあるのかどうかはよく知りません。最近のガキンチョはYoutubeとかを見てるんでしょうか)のも規模は小さいといえども政治だし、小学生がクラスでいじめの標的にならないようにうまく立ち回るとか、会社員が長いものに巻かれて波風を立てないように振舞って生き残るとか、オノヨーコみたいな「わけのわからない女」だか「姫」だか知りませんが、そういうのでバンドやサークルや集団がおかしなことになるとか、そういうのも政治です。そういう意味では政治は日常に否応なく存在してしまうものです。

 しかし、です。例えばネット上には、四六時中正義感を爆発させて政治をめぐる問題に怒っている人たちがいっぱいいます。ひどい人になると、郵便ポストが赤いのもアーマードコアの新作が出ないのも黒塗りの高級車に追突してしまうのも何もかも今の首相のせいだと毎日のように言っている人もいるし、郵便ポストが赤いのもアーマードコアの新作が出ないのも黒塗りの高級車に追突してしまうのも何もかも在日朝鮮人や韓国人のせいだと飽きもせずに言い続けてやまぬ人もいます。「敵という名の覚醒剤」は、人間に「生きがい」を供給する。

 その昔、「宗教はアヘンである」と言ったドイツ人のおっさんがいたそうですが、それは要は「宗教はあきらめやなぐさめを提供する麻酔薬であり、不幸という「現実」を変革するために人々が立ち上がるのを妨げている」ということでしょう。でも、そうやって提示された“現実“という名のアヘンを吸引して「行動」した人たちによって、1億人以上の人間がSATSUGAIされたことはご存知の通りです。
「安倍が日本をダメにしているという現実」や「在日が日本を蝕んでいるという現実」を信仰して「政治堕ち」したり「正義堕ち」してみせたところで、そこで提供される「生きがい」によっては、おのれの「実存」をめぐる問題は決して解決しない。むしろ、そういう問題を忘却せしめる――そのことは今までに述べてきたとおりです。

 インターネッツで日夜正義感を滾らせたり、鬱憤を晴らしてりしている人たちは、世の中をよくしたいと願っている人もいるのでしょうが、本当は自分が救われたいだけだという人も多いのではないか(これは「哲学」や「思想」なるものに興味を抱く若い人たちにも共通する問題なのかもしれませんが)。
 こんなことなら、例えばアイドルの追っかけをしたり、プリキュアやラブライブの応援をしたりしていたほうが救われたのではないか。あるいは、政治ではなく宗教に行った方が整合性があるのではないか。

 以前どこかで、「昔なら宗教へ流れた感情が宗教に行けなくなって政治や学問や哲学や思想に流れている。これはオウム真理教によって宗教はとにかく良くないものだということになったからではないか」という指摘を見たような記憶があります。これが肯綮にあたっているかどうかは私は知りません。いずれにせよ、「以前は政治に興味がなかった人が、四六時中在日朝鮮人や韓国人や中国人を罵倒するようになってしまった」とか「東日本大震災後、以前は穏やかで優しかった人が反原発運動に染まって、いろんな政治家に罵詈雑言を浴びせる人になってしまった」なんていう話を聞くと、悲しいばかりです。

 そういうわけで、いずれにせよ私は、政治思想や社会思想や倫理思想の類は、自分が抱えてきた問題とは本来的に別なものだということに、遅まきながら気づかざるをえませんでした。気づいたうえで、それでは自分が生きて死ぬ上でのよすがになりうるようななにものか、などというものが果たしてありうるのだろうかと思い始めました。
 そう思うと、自分がいったい那辺に関心を向けるべきかということが否応なく問題になってきました。それは宗教とかそういう分野でしょうか。でも私は、「なんか壺を売りつけてくる人たち」とか、「いろんな有名人の守護霊を呼び出してインタビューをしちゃう教祖がやってるやつ」とか、ああいう類のものは全部ノーサンキューです。それでシアワセになったり救われたりしている人は、(周囲の人を閉口させたり家庭を崩壊させたりといった問題を起こしてなければ)皮肉でなくそれでいいと思いますが、ワシはそういうのは無理です(´・ω・`)

 そういう新興宗教や自己啓発の類やオカルトやスピリチュアルその他その他といったあやしげなものではなく、もっと伝統的な宗教ならどうかというと、それも厳しい。例えばキリスト教だったら、「全知全能の神が存在する」とか「神が七日間で宇宙を創造した」とか「イエスは刑死した三日後に復活した」とか、無条件に信じなければならない前提が山のようにあって、これまたワシにはきついです(´・ω・`)
 大乗仏教の一派である浄土教にしても、阿弥陀仏に帰依すれば極楽浄土に往生できるとか言われても、「そんな異世界に転生してチートするみたいな話をされてもなあ(´・ω・`)」と思ってしまうわけです。浄土教の場合、文字の読み書きもできなかった昔の人にとっては易行道だったのでしょうが、私には難行道の中の難行道だと言わざるを得ない。

 そういうわけで「神は死んだ」じゃないけど、現代人の自分には何がしかの「超越的で絶対的ななにか」を信仰することで救われる、といった類の方向性は無理無理かたつむりということになりそうです。そもそも、自分はそういう発想とは合わないからこそ、「“現実”とやらを見据えているかのように騙り、『超越的で絶対的ななにか』から中立的であるかのように装いながら、実は『超越的で絶対的ななにか』に対する狂信を密輸入することで成り立っている今様の政治の言葉全般」が嫌いになったのではなかったか。それならば、ここで似たようなものを求めてしまう愚は避けねばならない。じゃあ一体どうしたらええねん。そう思っていました。

 これから私が書こうとしているのは、そう思っていた私が出会った二人の人物が語った思想をめぐる諸問題に関する話です。そのうちの一人は今からおよそ1800年前のインドを生きた人です。もう一人は、およそ2300年前の中国の人。私の理解ではこの二人(特に前者)は、神だの神秘だの前世だの来世だのといった(私には到底信じられない)ものを持ち出さずに、生死や実存を巡る問題を解決する糸口を示すという衝撃的なことをやってのけた人です。

 ともあれ、これから素人の私が拙いながらもやろうとしているのは、その二人の思想が残した諸問題に関する己の問いに答えるための準備作業であります。(続く)

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(注)私は、この種の昔からある主張には、初期経典に見られる梵天勧請のエピソードにおいて釈迦がなにゆえ梵天の言うことを受け入れたのかを問う視点が欠けているのではないかと考えている。ともあれ梵天勧請というエピソードはさまざまな重要な問題を孕んでいるので、この雑文においても後に詳しく触れる。

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