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Altruism【利他主義】~そもそも「利他」って、何だろう?

 2011年3月11日、わが国は未曽有の悲劇にさらされた。10年たった今も爪跡の癒えない、東日本大震災。あの日、本土の北半分が機能停止に陥り、原子力の脅威までもが襲いかかった。そして、その翌日から沢山のボランティアが北へ向かった。被災地の人々は自らも被災しながら、他者を支えた。

 3.11大震災は悲惨な出来事だったが、私たちは目を覆う惨事の数々から、大切な気づきを得た。それは「他者ファースト」の心であり、行動だった。あの日、自らを犠牲にして、家族や知人を救った人もいる。多くの消防団員が、コミュニティを救うために亡くなった。あるいは、救いたかった命を救えず、今も自分を責め続けている団員もいる。日本はもとより世界中の人々が、東日本のためにできることはないか、自らに問い、様々な形で声をあげ、動き出した。

 ふりかえれば、阪神大震災の時にも、チリ地震やニュージーランド地震の時にも、同じうねりが起こり、あたかも、そのうねりがなだれ込むかのように、東日本に向かった。そして、その後は熊本や広島をはじめとする地震や豪雨などの被災地へ向かっている。

 辞書では、「利他主義(altruism)」とは「自己の利益よりも、他者の利益を優先する考え方」と説明している(ブリタニカ国際大百科事典より)。これは、19世紀フランスの社会学者オーギュスト・コントが利己主義(egoism)に対する概念として命名した造語だ。大辞林三版では「自分を犠牲にしても他人の利益を図る態度・考え方」、大辞泉では「他人の幸福や利益を図ることをまず第一とする考え方」と説明している。

 「altruism(オルトルイズム)」という英語が日本語へ翻訳される際、大乗仏教の「利他」という用語が選ばれた。「利他」とは「他人を思いやり、自己の善行による功徳によって他者を救済する」ことである。翻訳者は、altruismを「他者を救済するための善行」と捉え、この仏教用語をあてたものと思われる。

 しかしながら、現在の辞書で「利他主義」をひくと、ことごとく「…な考え方」と説明されていて、「Altruism」の翻訳としてあてられた大乗仏教の他者を救済するための「善行」とは異なる定義に変っている。大乗仏教の「利他」では善行という「行動」が前提とされているのに、辞書の「利他主義」では「行動」の意味が欠落しているのだ。

 これについては、改めて問いをたてるが、その前に、同じ仏教でも大乗仏教と「それ以前の仏教」では「利他」の捉え方が異なることを紹介する。

 まず、「それ以前の仏教」では出家した僧だけが修行によって悟りを開き、「阿羅漢」になれると説いている。「阿羅漢」とは悟りを開いた「聖者」のことだ。つまり、「それ以前の仏教」では修行を積まなければ「阿羅漢」になれないうえ、修行を積んで「阿羅漢」になっても、まだ仏さまにはなれないというわけだ。

 一方、大乗仏教では善、行を積めば誰もが「菩薩」になれると説く。「菩薩」とは「仏陀」候補のことだ。大乗仏教では僧にならなくても在家でも「菩薩」になれるし、誰もが「仏陀」候補になれるいうのだ。

 さらに、大乗仏教は「それ以前の仏教」が僧だけが「阿羅漢」になれるというのは利己的だと指摘している。これに対して、「それ以前の仏教」は、大乗仏教が説く「善行」は利他に見えるかもしれないが、最終的には自らの悟りをめざすわけだから利己的だ、と反論した。

 どちらの主張にも一理ある。この議論は、利己がいっさい混じらない純粋な「利他主義」は存在するのか、という究極の問いに関わっている。そして、この問いに対しては様々な学問分野が解を呈し、多様な見解を示している。見解のあれこれはAltruism2で紹介しよう。
                                  to be cotinued💓

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