「キャッチャー・イン・ザ・ライ」読後感想

今でも若者のバイブルとなっている『ライ麦畑』の村上春樹訳版だ。主要な登場人物は主人公のホールデン・コールフィールドただ一人であり、物語は一貫して彼の一人称で語られる。


成績不良の学生ホールデンがクリスマス(つまり子どもにとってのお祭りだ)前後に学校を抜け出して起きた出来事が語られている。そこでは大人が使う建前や欺瞞に対する失望と憤怒、性に対する焦燥と畏怖がこれでもかと思う程、300年くらい綴られている(ホールデン風な誇張)。落ちこぼれ学生であるホールデンが言う、『ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。』これがどういう意味なのか。それが本作品の主題である。ホールデンは「大人たち」が使う建前を嫌い、その反対の存在である無垢でイノセントな「子どもたち」に憧憬している。ホールデンはさらに言う、『ライ麦畑では小さな子どもたちだけが遊んでいて、僕はその辺にある崖っぷちで子どもが落ちそうになったら現れて助けてやるんだ。』と。だから、つまり純粋な子どもたちが欺瞞溢れる世間から汚させたくない、ということになるのだろう。



ところで、(ここで閑話休題という言葉は使えないんですね。初めて知りました。でも個人的にはここからが本編)かく如き、落ちこぼれた学生が、社会に対しての不満を漏らしたり、突飛もない夢物語を実行しようとしたりするお話は太宰治もよくテーマに挙げるが、彼らは同じような小説的、人生的テーマを持っているのだが、次のような違いがあることに気づきました。①小さな子どもをイノセントとするか②弱者は自分自身を弱者として振る舞うかどうか。①に関して太宰は自身が小さい時から道化であったことが「人間失格」等に書かれているので、ないのではないかと。太宰にとってのイノセントは社会的区分で決まるものではなく、その人が孤独であり気高くあり清貧であることが重要なファクターであるような印象を私は受けています。子どもである必要はない。②に関しては、彼らは同じような社会的弱者を小説に持ち出してながらもその扱い方が非常に対照をなしているようで個人的に面白いところです。太宰の書く弱者は自身が弱者であることを殊更強調することで、私は清いので、社会という強者の原理の下での闘いに関与しませんよ、という風な態度を取ることで自我を保っているように感じられる。そして私はこのような良い言い方をすると潔い弱者に強く惹かれてしまうようです。以上です。読んでくださりありがとうございました。

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