ヨルシカの花

 こんにちは!はじめまして!今回は読書感想文ではないのですが、個人的に大好きなヨルシカについてお話したいと思います。


 ヨルシカの綺麗なギターサウンドと狂気的な歌詞やっぱりいいですよね!私も大好きです。
しかし今は12月ということで、ヨルシカには冬についての曲はあまりないですが、あの孤独な歌詞は冬にも合うのでいいですよね。

 先日、ヨルシカ公式から2023年4月5日に音楽画集「幻燈」が発売されると発表がありましたね!第一章「夏の肖像」と第二章「踊る動物」の2章で構成されているようです。またすでに配信されている「老人と海」「チノカテ」なども入っているみたいです。これらは名作小説を音楽にしているので、今回の画集では「絵、音楽、文学」の3つの表現が組み合わさっていてより作品が楽しめそうですね!

 さて、本題に入りますが、今回はヨルシカの最新曲「チノカテ」を聴いた感想について書かせて頂きました。少々長めになってしまいましたがお時間がございましたらぜひお読みください。

 まずはヨルシカさんの「チノカテ」の歌詞を載せさせていただきます。

 歌詞

夕陽を呑み込んだ

コップがルビーみたいだ

飲み掛けの土曜の生活感を

テーブルに置いて


花瓶の白い花

優しすぎて枯れたみたいだ

本当に大事だったのに

そろそろ変えなければ


あ、夕陽。本当に綺麗だね


これから先のもっと先を描いた地図はないんだろうか?

迷いはしないだろうか

それでいいから そのままでいいから

本当はいらなかったものもソファも本も捨てよう

町へ出よう


本当は僕らの心は頭にあった

何を間違えたのか、今じゃ文字の中

花瓶の白い花

いつの間にか枯れたみたいだ

本当に大事だったなら

そもそも買わなければ


あ、散った。それでも綺麗だね


ずっと叶えたかった夢が貴方を縛っていないだろうか?

それを諦めていいと言える勇気が少しでもあったら

本当に欲しかったものも鞄もペンも捨てよう

町へ出よう


貴方の欲しがった

自分を捨ててしまった

本当に大事だったのに

今更思い出す


花瓶の白い花

枯れたことも気付かなかった

本当に大事だったのは

花を変える人なのに


あ、待って。本当に行くんだね


これから先のもっと先を描いた地図はないんだろうか?

迷いはしないだろうか

それでいいから そのままでいいから

本当はいらなかったものもソファも本も捨てよう

それでいいから


貴方の夜をずっと照らす大きな光はあるんだろうか?

それでも行くんだろうか

それでいいから そのままでいいから

全部を読み終わったあとはどうか目を開けて

この本を捨てよう、町へ出よう

ヨルシカ「チノカテ」


 ヨルシカにとって花は「恋人との美しい思い出」という優美なメタファーだと思います。これはエルマの書いた詞に花という言葉が多用されているし、『花人局』にも恋人が去ってしまった様子を「さよならを置いて 僕に花もたせ」と表現していることから推測します。そして今回チノカテでは「花瓶の白い花 優しすぎて枯れたみたいだ 本当に大事だったのに そろそろ変えなければ あ、夕陽。本当に綺麗だね」ここの日常感と静謐を感じる歌詞は「終わりを想起させる」夕陽と花が重なることで、思い出に浸りきった自分からの解放を表現しているように思われます。

 しかし優しい過去とお別れしたいと思っているこの曲における主人公はその先にある夜(=暗くて寂しい場所)に行くことにはまだ迷いと不安があることを「これから先のもっと先を描いた地図はないんだろうか?迷いはしないだろうか」と主人公の青々しさが伝わってくる詩で書いている。

 そこから「それでいいから そのままでいいから本当はいらなかったものもソファも本も捨てよう町へ出よう」と作曲者が主人公の門出を励ましているような印象を受けた。個人的に、ヨルシカの歌詞に出てくる人物=作曲者とまでは考えていないが歌詞にある程度の私小説的要素が認められるので部分的に登場人物=作曲者と解釈することを許してほしい。

 私は作曲者はこの曲あたりから思い出を乗り越えていこうとしていると思わせるような印象を受ける。

 「花瓶の白い花 いつの間にか枯れたみたいだ 本当に大事だったなら そもそも買わなければ あ、散った。それでも綺麗だね」では

(「花瓶の白い花 いつの間にか枯れたみたいだ 本当に大事だったなら そもそも買わなければ」 )
大事にしていたエルマとの美しい思い出を曲としてお金にしてしまったが、

(「あ、散った。それでも綺麗だね」) 
変わらず美しく心に残っている 

と勝手に解釈したがこれは「だから僕は音楽を辞めた」でエイミーが叫んだことを内包してしまったように感じる。エイミーは美しい思い出をただ音楽にしたかったのに、段々と金稼ぎの手段となってしまったことを嘆いている。悪く言えばそういう自分が嫌いになっていることで頭が一杯でエルマとの思い出がお金に変わったところでその美しさは変わらないということが分からなかった。

 エルマとエイミーの物語では花が余りにも美しく、花=自我というところまで来ていて、だからこそ、自我を全的に包括していた花を歌に昇華したあの二枚のアルバムが私の心を激しく揺らしたのですが、それを乗り越えつつある作曲者が次にどのような精神的要素を歌にしていくのかには目が離せませんね!

 私は個人的にヨルシカの歌詞考察によくある読みに他の漢字を当ててダブルミーニングにするというのは読んで好きではないです。例えば、思想犯で「爪先立つ」を「妻先立つ」と読むのは有名なもののうちの一つです。別にそういう考察が悪いと言ってるわけではありませんが、それってたまたまそう読めてしまっただけなんじゃないかという偶然性の方が大きいし説得力がないんじゃないかと思われます。ドミートリーにゾシマ長老が跪拝したことをくさしたラキーチンみたいな気持ちになる。テキトーに意味深なことをしておいて、後でそれをみんなで、あれは何かの予言だ、象徴だ、アレゴリーだとかなんとか言ってるように思える。というようなことで最後に私のエゴが出てしまいました…スミマセン…


最後まで読んでくださりありがとうございます。良いなと思ったり感じたことがあればコメントやスキ、フォローでのフィードバックお待ちしております。

普段は小説、新書の感想記録を書いてます。工学系の学生ですが、専門知識ばかりあってもだめだと思い読書を始めました。他の投稿も覗いてみて下さい!

それでは、ありがとうございました!


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