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以前書いたエッセイを書き換えました📝人生観とかそう言ったものを考える事もあるわけですが、私も年相応の考えと言ったものを意識するようにもなりました😌再度、推敲した事で以前よりもすっきりしたものに仕上がったのではないかな?と思います📚これを書いたころは小林秀雄を良く読んでいたのでそれからヒントを得ました。

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我々が、生きている時間は.一定方向を持つということを改めて確認したのは、(1)小林秀雄と湯川秀樹の対話を見てからだった。我々が本来、生きている時間は肉体の老化と消滅、知識の蓄積すなわち記憶と関係があるよう思えるが、対して、物理的に想起される科学的な時間とは、原点を基準として、正と負を持つ数直線で表される、すなわち過去も未来の現象も考えられる連続時間だ。
この一定方向に流れる我々の生きている時間とは、言葉を換えれば個々の人生だ。結局、個々の我々にとって一番難しい問題とは、この一定方向に流れる時間をどう生きるかだろう 。
私の人生も凡夫の生として後悔の連続であったと思う。しかし、最近、生の持続という考えに思いめぐらすようになり、自分の過去から現在までの一連の流れを俯瞰するように眺める試みをやるにつれ、自分の生きてきた人生をありのままにそのままに受け入れようという考えが湧き起こるようになった。そうして、かって抱いていた自分の人生に対する後悔の念からも徐々に解放されるようになってきた様に感じ始めた。
「現在の自分は、その時、その時で自分自身が選んできた選択の結果の積み重ねで出来上がっている。自分を取り巻いていた状況や環境というものも自分に与えられた、言うなれば運命とも呼ぶべき仕方のないもので、その運命の中で選択してそれなりにやってきたのだ。」 
このように考えて、自分が生きてきた生を俯瞰する。それは自己批判や反省というよりも、自分の生の持続をありのままに見つめる行為であった。そのような自身への内観を始めるとふっと後悔の感情から解放され始め、これからは自分は何を為して、どう生きていくのだという未来に対する緊張ともに、行動への意欲を感じるようになった。
観という事について、小林秀雄が(2)「私の人生観」という題目で講演した記録が興味深かった。

『観ということは見ることであるが、そこいらのものを見るのではなく。極楽浄土が見えてこなければいけない。極楽浄土というものは、空想するものではなくまざまざ観えてくるものだという。禅というものは考える、思惟するという意味だが、禅観というのは、思惟するところを眼で見ることになる。仏教でいう観法とは単なる認識論ではなく、人間の深い認識では、考えるとことと見る事が同じにならなければならぬ、そういう心身相応した認識に達するためには、又心身相応した工夫を要する。そういう工夫を観法というと解してよかろうと思われる』 

なるほど私が自分自身を振り返ってみようと試みた行為も一種の観と呼べるものかもしれない。過去を振り返ってあーであった、こーであった、過去は間違いであったと批判し、後悔や嫌悪と言った感情に駆られて生まれた思考、行動にどれほどの意味があるのだろうか。それは確かに自分を欺いた、自己欺瞞に過ぎないのではないか。これからの予想や事後の本当の反省などは、過去をもう一度現在に生き、俯瞰したところからしか生まれないのではないだろうか。
宮本武蔵は、(3)独行道の一条に「我事において後悔せず」と記している。これは、自分に与えられたその時、その時を後悔なきように全力で取り組まなければならないと解釈をしていたが、小林秀雄の「私の人生観」で述べられている解釈は次のようである。 

『昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだろう。後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである。それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるでしょう。』 

これは宮本武蔵の観法になるだろうか。自身の生の持続をその奥深いところで意識し、自覚していたのではないかと思う。行為、行動の達人であった武蔵の学ぶべき人生観であるだろう。
また(4)論語に孔子の人生観を示した言葉に、次の言葉がある。

子曰く、
「吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。」

この解釈について、(5)脳科学の観点から年齢に沿った脳の発達段階に応じて、人は考え方が変わるとの解釈があったが、これも孔子の観法と捉えれば、年齢を追う毎に、孔子が意識の深いところで心身相応に認識していたその人生観の変化だ。
「十五歳で学問に目標を定め、三十歳で自分の仕事、道を見定め、四十歳にして自分の生き方に迷うところが無い。五十歳で自分の運命を悟り、六十歳で人の言うことに反発無く、素直に耳を傾ける。七十歳で自分の思うように行動しても人の道を外れる事が無い。」
人はその年齢毎に応じた思想、人生観を持つべきではないだろうかと思う。常に若者の様に考える事が正しい事ではあるまい。その年になったまでの持続を生きてきたのであれば、その年なりの知恵ある考えもまた生まれてくるだろう。そして、今の自分は自分の道を見定め、迷い無く考えて行動し、生きているだろうか問いかけたい。それは、常ある毎に問いかける命題であるだろう。

(1) 小林秀雄対話集 直観を磨くもの 小林秀雄著 新潮社
(2) 小林秀雄全作品17 私の人生観 小林秀雄ほか著 新潮社
(3) 五輪の書 鎌田茂雄著 講談社
(4) 論語 金谷治著 岩波書店
(5) キレる女懲りない男―男と女の脳科学 黒川伊保子著 ちくま新書

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