ずっと忘れないよ
僕は「ずっと一緒だよ」という言葉に弱い。琴線に触れる。でもそう言ったのに、みんないなくなった。みんな。物だとかでもそうだった。だからそんな言葉は嘘だとわかっている。
嘘なのに信じてしまう。信じれる気持ちから解釈するときっとそれは「ずっと忘れないよ」と言いたかったのだ。それなら信じることで嘘じゃなくなる。記憶は生命的な時間だ。時間に生が宿る。
ネット時代で人類は記憶をなくし、外部に記録を頼るようになった。記録はずっと一緒ではなかった。一緒にいたのは記憶だった。時間はただの目盛りになった。
心の中の時間と、自分の外にいる時間が全く噛み合わない。生命体が動くのと違って、刺激でラッチを進むような挙動を積み上げるようにする人たちも少なくない。何か、足がないかのような、上半身か脳とだけといるようなものだ。
身体のない実用学問はほどほどにした方がいい。心理だけ切り取らないでほしい。
話としてまとまめられる事は大抵、身体を置いてきた「考」だけになっていることが問題だ。例えば多様化を説いて集団を作り対抗する。おかしいじゃないか。
ずっと忘れない。大事なものは身体が忘れない。
だからどんどん忘れていい。そうしたら自分だけの想いになっていく。
でも今は記憶ではなく記録に頼るから自分になれない。情報の記録は私と関係がない。記録は死んでいる。ただ流れに乗っているだけ。生きている記憶は流されずにいつでもやってくる。
ずっと一緒にはいられない。それぞれがそれぞれ生きている。それぞれ消えていく。それぞれがそれぞれでいることは宿命的。ずっと一緒だと願うけど、本当は、一緒にいるうちから、ずっと忘れないよと思っている。
言葉の意味は言葉の表面に生きていない。生きている意味は見えないところにいる。例えば文学に親しむことで、言葉も時間も、より生命力を増す事ができる。こんな時代を抜け出すには一つ、そうしたらいい。
戦争の記録をとっておくことよりも、戦争の記憶を感じることの方が強いのではないか。戦争期が小説になったものも多い。夏が舞台の小説は多い。
デジタル化は、核の普及よりも生の危機を感じさせるものだった。インフラのせいにしないのだとしたら、上手な口が足元を破壊していったのだ。生きることばかり考えて、生きることばかり語られ、生まれてきたことなど捨ててしまった。身体にはしまわれているはずだが。
どこにいくのか? ずっとこのまま?
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