寝られる自由

動物たちが平和に、のんびりと好きなように過ごしている画像は人気がある。動物としての自由はよいものなのだ。動物界では厳しいこともあるし、社会が一個体をまもることは、人間社会ほどはない。大雑把に、ないと言い切っても日常的には怒られもしないだろう。

動物の自由は、厳しい生から一旦離れられて、身体の安心とか心地よさとかそういったものへ向かっている。人間は頭が飢えてしまう悪い癖があって、その自由は破滅へ向かう。そういった嫌な予感も含んでしまう。そう考えると人間にとっての自由は、半分自由くらいがベターなのかもなと思う。

頭のリードが強すぎるのだろう。身体に任せることができたら人間だって、温泉に浸かる動物たちと同じように、風呂に入って目を閉じて、深い呼吸をしたりはできる。そういったものは今の画面上でイメージ化されにくく、忘れられがちなのかもしれない。

ネット、SNSなどが普及して、なんならプライベートの部分出しくらいは当たり前でやるようになった。でも、寝るところや風呂、トイレなどは通常公開しない。

そういうことをしない人などいないだろうが、どうしているのかはわからない。ただ、そもそもそういうもんで当たり前なのだ。それ以外を何でもかんでも公開しすぎて、ちょっと狂いというのか、超えすぎていて慣れてしまっている。

もはやTwitterも裏世間ではなくなった気がする。出会い系アプリや出会い厨などを考えると、性風俗などを問題視してもまるで見当違いに思える。むしろ、真面目なさみしい人が性産業を通っているといえるくらいになっていると思う。

案外世間は現実が見えていないのだろう。そして既存の思い込みのイメージが現実だと。それではどう考えても現実とずれた判断になってしまう。それまでの世界観で道徳問題を叫んでもとっくに遅い。むしろ出始めで表面化していない問題を見ないといけない。

いまの世間、現実世界と思い込みの世界が別々に、リアルな存在なのだ。

ともかく、論理的になりすぎて、身体性が薄れすぎてしまっているようだ。例えば単純に、ランニングなどして血流量が上がると、頭や視界がすっきりしてくるもの。そういった身体の健康作りをやっていれば、機嫌は悪くなりにくい。具合が悪いと、特に頭がすっきりしないとかお腹がすっきりしないとかだと、機嫌は悪くなる。睡眠も深くならない。

自分は神経質だなと思ったら、不健康か、その対象に関して無知なのではないかと疑ってみてもいいのだろう。

*僕は毎日のように(週5くらいか)、10分くらい走る。走る人からしたらたったの10分だと思う。だけど血流量が上がり、走った体の血が頭に回りだしたのを感じると、頭の中に沈殿したものが流されてすっきりする感覚がある。寝起きのよい朝のような感覚。それのために走る。それが10分15分で済むので、具合が悪くなければ朝にそうしている。

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