「共感の正体」 読んで思ったこと

まず現在では基本的に、
・認知的共感
・情動的共感
この二つがあると考えられているようだ。


また、苦しんでいる相手と同じ感情に襲われるため、共感的苦しみに押し潰されたり誤った判断に導かれたりするという理由の反共感論もある。災害や戦争のニュースで、苦しくなってしまう人もいるだろう。

相手の言っていることがわかるというだけで共感していることになっている現在。共感について何も考えていない共感論がふるわれている。いじめも、仲間内と外とで敵友の線を引くのも、状況が見えていないと思う。

共感とはなにかを考えよう。


近代化は理性を重視して、正さや合理性を求めていればより良い社会になると考えて啓蒙をしてきた。しかし20世紀の世界大戦で、理性は誤った判断に陥りやすく危険であるという反省が強まった。こういったものが戦後の反権威的な運動だろうし、西洋で東洋思想が取り入れられて理由ではと思う。つまり究極の正しさに向かっていこうとする近代から、「時と場合による」という究極ワードから始まって広がっていく脱近代が探られていったのではと。

ギュスターヴ・ル・ボンは「群集心理」で、複数の人間が集まると暗示にかかりやすくなり、情動伝染が起こりやすくなると分析したようだ。現在の正しさの啓蒙や真実の啓蒙などのタチの悪さは、一部の現代人には当然のように、人類上の問題児なのがわかっているだろう。

10年代に美しく語られたつながりの理論。ネットやSNSが普及して世界はつながり、人々は対話をし理性的になり、飢餓や戦争のない世界になるなどと語られたが、すぐに逆の状態になった。分断がはじまり、今や戦争のニュースで暗い気持ちになる。当然だと思うのだが、繋がればよい話だけでなく悪い話も広がっていくと思うのだが。あの頃のムーブメントはどういうことだったのか?ポジティブな見方が現実を見えなくさせていたのだろうか?


ダーウィンの進化論の前と後では語れることが違ってくる。ダーウィン後では人間は動物だし、動物にも社会性があり、そこから社会を考えることができるようになった。それ以前の西洋的な啓蒙では、人間の原初状態からでないと社会を考えられない。でもそれはエデンの園から考える構成だと思う。

正しいから他者を助けるのではなく、同情するから、そういった動物としての人間の精神機能が働いている状態だからよいことができる。ビジネス書ではよく、ミラーニューロンがなどと書かれているのだけれど、、、

仮に正しさが正しいのだとしても、その人が正しいのではなく、正しささんが正しいだけ。例えば以前の僕は、自然が正しいと考えていて、自然を壊す人間が間違っていると怒っていた。でも自然が正しいのだとして、僕が自然に互換しようと感性を使って捉えてきたといっても、自然さんが正しいのであって僕が正しいわけじゃない。なんで僕まで一緒にして正しいと思えるのだ?と。人間としては傲慢だ。

こういった都合のよい一体化で、正しささんが正しいから私は正しく、私はおまえを罰すると動いてしまう。とんでもない社会の害ではないか。それでは確かにテロの世紀といわれるのもわかる。


ケアの倫理とかケアという挙動は論理的な正しさに従えば良いという発想ではないと思う。共感反応で構成される善の見直しを求める社会や社会性だと思う。

認知的共感と情動的共感の二つがあることを思い出して、どちらかに偏りすぎてはいけないということだろう。人間動物からフィジカルな幸せを罰しておいて、幸福な社会が手に入るわけがない。

もう少し情で接すること。共感で接すること。理屈にムキになるなということ。哺乳類の社会性は同情、共感によって扶助が動機付けられている。人間以外の社会では、契約などによらない社会ができている。動物の社会性は、友情を超えた社会関係を作り出す。なぜやるのか?ではなく、人間は動物でありそのようにできているのである。それをわざわざリセットして人造化する。

アラスデア・マッキンタイアという、倫理学の共同体主義者に分類される学者の話が僕にはしっくりくる。僕の社会判断というか環世界は、共同体主義が軸足なのだと思う。進化度的に人間以前からいた動物にも社会性が認められる種は少なくない。人間動物は、社会からされたことを社会へ返していくようにできているのだ。そういった理解があったので、この「共感の正体」という本は、わりとすんなり読めた。


哺乳類の社会は協働するから、共感をして同調をして行動をする。だから、社会の仲間であり、自分もその責任を負う。集団の外には協働しない者たちがいるわけだが、ひとまずそこは社会外部になる。だから共通了解で橋渡しできる宗教が登場することになったのだろう。集団内で相互依存が強化され、社会のうちそとができると、集団の外とは時と場合でうまくやったり対立したり決定的に二分されるようなことが起きた。つまり現状の世界統一を目論む道徳や道徳性、社会や社会性は、諸刃の剣だし、人間の生を半分不自由にする。

いや、分業が私たちの社会の正さではなく、手分けを忘れてはいけないということだ。忘れれば、生き物としての心地よさも意識されなくなってしまう。

まず人間動物はうちの社会で扶助の構造に加わり、そしてその基礎を使って外部と協働することができるようになる。であれば動物的な倫理と理性的な倫理の2段を両立していくのが、人間の生としては真っ直ぐだ。

認知的な共感では規範、原理に従う。絶対的な正しさによって異質なものを排除する。そういった予想可能なものもある。同時に予測不可能なものもある。情動的な共感では、その時の状況で偶然に、共感して相手を受け入れ助けようとする。それは規則よりも優先される。自然な衝動に駆られて行動する


コミュニケーションは積極的なものとは限らないし、むしろ情によるものは偶然に発揮されるもので、積極性とか能動態とかそういうものじゃない。ケア方面でいわれる中動態だ、と思う。

ついでにいうと現在よく耳にするコミュニケーション論は人間用ではないと思う。ビジネスが好んで啓蒙していくけれど、あれは通信技術に合わせた話だ。向こうの機械に正確に伝えるためには何回も同じデータを送ればいい。いくらでも好きなだけ正確度を上げることができる。

人間が通信技術論に合わせることをコミュニケーション論といって納得している状態に、生物的にまともな関係性が成長していくわけがないと思う。相手に伝わるように伝えればそれでいいのか?

ホラー映画を見て平気な人もいるし病気になる人もいる。なのになぜ言葉はプレーンな扱いなのだろう?そんなわけがない、効きすぎてしまう人もいる。繊細さんといって厄介者扱いまでする。

効き目のないひとも動かさないともう経済的な成功が手に入らないのだろう。その他者を制御しようとする圧がきつすぎて、その迷惑で心理的に病んでしまう人々を産んでいると思う。静かにしてほしい。というか、もしそうなのだとしたら、コミュニケーション論を語る側が人間の共感やコミュニケーションを理解していないことにならないだろうか?

理論に従い、直接の感情がないのに、利他を行っても生物的ではない。情よりも理論、合理化を信仰しておいて幸せがとか幸福度がとかいわれたら生き物からは迷惑な話だ。それはおそらく幸せではなく満足であり、情のなくなった社会に人間の幸せなんかあるわけがないと思う。そもそもがというか、どの話を聞いてもおかしい時代になっている。


「共感の正体 つながりを産むのか、苦しみをもたらすのか」山竹伸二、河出書房新社

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