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【長編小説】分岐するパラノイア-schwartz-【C21】

<Chapter 21 或る男の逸話(三)>


ゆっくりと陽が沈んでいる。
まだ私はヨタヨタと歩くことをやめてはいなかった。

昔もこうやってヨタヨタ歩いていた。
まだ “トモダチ” とよべる人間がいた頃だ。
今のように行き先がないのではなく、行き先がわからない歳だった。

若さゆえと言われればそれだけの話かもしれないが、
わからない人生を楽しんでいた。


彼は大学に入学したが中退してしまった。
理由は端的に言えば単位が足りず留年するか辞めるかの二択になってしまったからだ。

具体的に言えば彼のような人間は大学という場所は馴染めなかった。

彼は中学校3年間、高校3年間の計6年を
まともな人間関係を築けず過ごした。

一般的な学校生活を営んできた周りの人間とは打ち解けることができなかった。彼は大学に居場所を見出せず、足は遠のくばかりであった。

朝方まで寝ずにアニメや映画を観て、
朝のニュースが終わる頃に寝るという昼夜逆転した生活を送っていた。
収容所のようなクラスに入り、せっかく進学した大学から逃げた。

少しバイトもしたがそんなに長続きはしなかった。
そして大学の長期休暇には地元へ帰り、悪行の限りを尽くすのだった。
その頃の出来事が今の彼に重くのしかかっている。

彼の記憶がない期間はその頃からである。
記憶喪失というわけではなく途切れ途切れで、
断片的にしか思い出せず、整合性がない。

大学を中退し地元に帰ってきた彼は毎日のように誰かと飲み歩いたり、
1日中ファミレスや商業施設で過ごした。
彼の思い出は他人と記憶がズレているのだ。
出会った時期や遊んだ場所などなぜかズレている。

私が彼という自分自身と対話するきっかけであるスマホの中のゼラニウムは語りかけてくる。

「忘れてしまいなよ。」

このゼラニウムは私の大切な “トモダチ” のSNSの中に咲いている。
すでに死んでしまっているのにこうやって今もゼラニウムを咲かせている。

死んだ人間はSNSはやらない。
どこかの誰かが勝手に更新を続けているのだ。
タチの悪い悪戯か、それとも科学では説明のつかない超常現象か。

彼はどうしてもその死んだトモダチと会わなくなった理由わからない。
思い出せない。
死んだ人間のSNSを更新し続けるのは誰かということよりも、
その理由の方が知りたいのだ。

その死んだ “トモダチ” だけではない。
彼と同じようにヨタヨタ歩いていた “トモダチ” とは
なぜ急に会わなくなったのか。


ゼラニウムは言う。
「もう関係ないでしょ?」

「そんな昔のことどうだっていいでしょ?」

「ただの思い違いよ。」

私はスマホの画面からゼラニウムを消した。うるさかったからだ。

たしかに昔のことで、どうでもいい話だ。
彼は幾人かの旧友に会ったり話したりしたが
誰もあの時を大事に思ってる人間なんていないのだろう。

誰もはっきりとは言わなかった。
言わなかったが、その理由は彼自身にあるということを
なんとなく感じていた。

彼が何かをした、事件を起こしたのかもしれない。
それで “トモダチ” は去って行ったのかもしれない。
あの当時のことなんて黒歴史以上の闇歴史とでも言うべき時間軸で
思い出したくもないのだろう。

ただ彼のこれからにとってはそうではないのだ。

整合性を失って彼自身が何をしたか、
何ができていなかったのかということを知らなければ
彼のこれからはない。

大事にすべきだったものをどうして途中で投げ捨ててしまったのか。

そのことにキチンとケジメをつけなければならない。

どんな罪も今となっては償いようはないのかもしれない。
それでも彼にできる償いは「知る」ということ、「感じる」ということだ。

ヨタヨタ歩いた先に見えたのは当時よく行った商業施設だった。
出入り口のベンチに座る。
夕方の時間なので学校帰りの学生がたくさん出入りしている。

みんな利口そうな顔をしている。
高校生も制服を着ているだけで振る舞いは大人だ。

大学生風のカップルもちゃんと小綺麗な格好をしている。
みんな楽しそうに歩いている。

この商業施設は最近大幅な改装をした。

当時馴染みのあった店は消え、
このあたりに住む田舎者が持て余すであろうテナントも入った。
できた当初だからこそ物珍しがって行くが、
日が経つにつれどうせ閑古鳥が鳴くのが目に見えている。

どんなテナントか、業態などは名誉のために伏せるがまともな人間が考えたとは思えない店舗が併設された。
商業施設とは言え、ただの田舎のスーパーだ。
主婦が家族の晩御飯の材料を調達し、
高齢者がわずかな年金でその日の飯を買い、
100均では子供がチープなおもちゃや文房具を買う。

まさに生活の一部であり、
生きてゆくための必要な物資を調達することが目的のスーパーだ。
それなのに、改装した後には明らかに場違いな店舗が入った。

私はそれが許せない。
それは私がこのスーパーでたくさんの思い出を作ったからだろう。

馴染みの場所、自分の思い出が詰まった場所を汚された私は、
悲しさよりも怒りを感じた。

出入り口のベンチに数分座っていたが、私のような者が座っていると
日常を送る人民たちの目線を集めてしまう。
もう少しこのやるせない怒りと懐かしさを感じていたかったが、
来た道を少し戻り駅に向かった。

今から向かうこの駅も少し前に大幅に改装された。
街はどんどん変わる。

私はこの街から出ることができなかった。
出たい出たいとずっと思っていたし、今でも出たいと思っている。
何度か脱出することはできたが、にっちもさっちもいかなくなり
またこの場所へ強制送還されるのだ。

私はこの街が嫌いだ。

過激でよくない思想かもしれないが、
できることならば魔法か何かで消し去りたいほどだ。

あえて言おう。昔はよかった。

今ほど複雑ではなく単純だった。
それは人間関係も、社会も、街も。
単純だった。

人と人は生きるために助け合い、集い、慰め励まし合う。
人は“生き合って”いた。

社会だって目には見えない法律よりも
自分たちの裁量でものごとを決める面もあっただろう。

街も、もっと寛容だった。
人が生き合い、人がどのように生きることを選ぶことができ、
その人間たちで寛容な街を作っていた。

いつからだろう。

この街がどこかの都会の街を真似て、
できもしないことやする必要のないことをして、
生きている人間やこの街で必死で生きようとしている者を
排除し始めたのは。

この街、いやこの国はあの凄まじい国家間の争いの果て、
人々のすべては雲散霧消となった。
そのなにもない更地から一歩一歩、先祖代々紡いできた
関係性は資本や科学で上書きされている。

近所の大人が子供に挨拶をしただけで防犯ブザーを鳴らされる今。
忌まわしい事件が起こっていることも百も承知だ。
しかし近所の人間が挨拶するという関係性ですら現在は
不審者や犯罪者の類として警報を鳴らす。
大人は「不審者や犯罪者だと疑え。」と教えているのだ。

果たして大人が教えるべきことはそれでいいのだろうか。
関係性を捨て、疑うことだけを未来ある子供に教えるのか。

疑うことを教えるな、犯罪から身を守るなということではない。
犯罪も抑止できて、なおかつ人と人の関係性もきちんと担保できるような
策を考え、実行し、子々孫々に伝えていくべきではないのか。

疑うことしか知らないのは、
あの英霊たちが礎となり、この国を導いた先祖の功績にあぐらをかいている
大人の方なのだ。

お尻のポッケに入っているスマホが震えている。
時間的に竜姫だろう。バイトが終わったという報告のメッセージだろう。
私はそのメッセージはまだ見ないことにした。



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