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祖父が亡くなりまして。

はじめに

私は身近な親族を亡くした事がなかった訳だが、
先程祖父が亡くなった。
祖父が亡くなって1時間半ほど。
この気持ちを忘れないために書き留めておきたい。

祖父の容体

先程亡くなった祖父は、昔から病気をしており大きな手術を数度行っていた。
元々身体障がい者で脚が悪く、運動などできない身体であった。
それが災いしてか知らないが、晩年体力もなく病気がちで家に篭りっきりの生活だった。

そんな祖父だが、運も悪く解離性大動脈瘤になってしまった。血管が裂けてしまう病気なわけだが、搬送された時点ではどうやら該当箇所が心臓に近く手のつけようがなかったらしい。

激痛を訴え緊急搬送されたのが5日前の事。
今日の午前中は会話ができるほど意識はあったが容体が急変してから最期はあっという間だった。
解離性大動脈瘤を発端に臓器不全を起こし、最後は至る所の臓器が駄目になり静かに息を引き取ったらしい。

そう、私たち家族が面会に向かっている最中祖父は我々の到着を待つこと無く亡くなったのだ。
親族に看取られず一人孤独の中この世を去ったのかと思うと胸が張り裂けそうになる。

せっかちを体現したような祖父だったが、最期もなんとも祖父らしいなと、そう思った。
何も一人でせかせかあの世に急がなくともいいのに。

祖父という人間

私の祖父がどんな人物かいうと、私に似ている人だった。
私が祖父に似たわけだが、容姿はともかく味の好みや細やかな癖、考え方や性格に至るまでそのまま祖父と私はそっくりだった。

かつての祖父の写真を見せてもらったことがある。
恐ろしいほどに私とそっくりでよく祖母がその事で笑っていた。

私の祖父は産まれた時高熱を出し、それが元で片脚に障がいが残ったと聞いた。
走ったりとんだりできないが、誰よりもせかせか歩き、自動車も普通に運転した。
職は外交官で世界中を飛び回り、様々な事物を見聞きし誰よりも経験を積んだそんな祖父だった。

数々の苦難はあっただろうが障がいをものともしない生き様だった。

そんなわけもあってか私は祖父の事が好きだった。正しくは心から尊敬していた。言い訳をせず自身の力で課題を突破するその精神は私にも脈々と引き継がれている。血は争えないものだと痛感した。

祖父との思い出

祖父は特段私を可愛がってくれていた。
初孫ということもあるが、自分と似ている孫を愛し応援してくれている事がわかる出来事が2つあった。

幼少期の思い出

私がまだ6歳ぐらいの頃。
間も無く小学生になるという幼稚園児に対して、祖父は笑いながらこう語った。

俺は小学校から高校まで皆勤賞だったんだ
きっとお前は根性がないから無理だろう

6歳ながらにこんなじじいに負けたくないとライバル意識を持っていた私は、俺だってできるとその場で宣言した。

その結果、私は祖父に負けたくない一心で小学校から高等学校の12年間の間皆勤賞だった。宣言通りやり遂げた。

達成した時祖父に電話したが、
そうか。おめでとうと一言祝ってくれた。

今思えば当時病気がちで、体が弱くしかもメソメソすぐ泣く泣き虫だった私が、学校に行きたくないとごねないようにハッパをかけてくれたのだと思う。

自分がクソジジイと言われても孫達の将来を憂いていた。そんな祖父だった。

大学時代の思い出

もう一つの思い出は比較的つい最近の話だ。
私が大学四年生、就活の時だ。

私は就活時、個人事業主になる事を決意し自分で事業を始めた。
私の一族は両祖父、両親共にゴリゴリの公務員の為、当時親族から猛反対を受けた。

ただ唯一後押ししてくれたのは祖父だった。

自分のやりたいことなんだからチャレンジしたらいい

そう力強く背中を押してくれた。
今思えば幼少期からずーっと祖父は私を一人の人間として対等に扱ってくれていた。

この時も子ども、孫としてではなく一人の人間として意見を尊重してくれた。

後にも先にもここまで背中を押し、そして静観してくれた人はいないだろう。

最期の教え

祖父の死を目の当たりにし、今まさに私の中で死生観というものに変化が起きた。

人は生まれながらにして死刑囚である

ブレーズ・パスカル

かの有名な哲学者のパスカルの言葉だが、まさにこの言葉を痛感した。

冒頭でも伝えたが、私は身近な親族を亡くしたことがない。
今回祖父は私の近親者にして初めての死者だ。
年功序列、最年長の祖父が死んだ。
自然の摂理に則って、祖父が死ぬのは至極当然のことであり、皆が一様に理解しているいずれ死ぬという事実を身をもって教えてくれた。

病院で先生から亡くなりましたとサラリと伝えられた時、胸の中に押し寄せた鉛のような重い感覚。
あれが身近な人間を亡くした時の喪失感なのだと知った。胸が押しつぶされるとはよく言ったものだ。

霊安室に横たわる祖父を見て、死を目の当たりにした。
今にでも起き上がり悪態を吐きそうな祖父だが、もう起き上がる事はない。
眠るような祖父を私は目に焼き付けた。
言葉はかけず、涙を見せず、ただ祖父の姿を忘れまいと目に焼き付けた。

最後の最後まで私に人として重要な事を教えてくれた。

そういった意味では祖父の死ぬまでの“暇潰し”は
大変充実したものだったろう。
その暇潰しに少しでも貢献できたら幸いだ。

最後に

私は、祖父に孝行できただろうか。
私は、祖父のような生き様を歩めるだろうか。
思い返せば重要な部分で祖父からの教えに導かれていた気がする。

後悔するならば、
一度で良いから祖父とバーに行き、一緒に大好きなバーボンを仰ぎたかった。

今はそんな想いに駆られながら、
纏まらない拙い文章を書いている。

一旦筆を置く事にする。

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