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短編 バイオリニストと万年筆10

開演10分前に到着したが、人はまだまばらだった。
女性のお客さんが多いが、男性もまあまあいる。20代から30代と言ったところか。私はカウンターでビールをオーダーし、会場の様子を見守っていた。一階席の他、二階にも少し席があるようだ。私は頭上に二階席のある、天井がやや低くなった後ろの方に立って、彼の出番を待つことにした。

前の二組はバンド編成だった。スリーピースと、金管楽器の入ったちょっとジャジーなバンドだ。二組の演奏が終わると、空のプラスチックカップをカウンターに戻しに行き、その足で少し前へ出る。やはり女性シンガー目当てのお客が多いようで、人々はじわじわとステージに向かってにじり寄り、押し出されるように会場の中ほどまで進んだ。
そして女性シンガーが現れ、会場から拍手が起きる。彼の姿はない。ステージにはピアノと打楽器と、シンセサイザーが並ぶ。まずはピアノ一本で歌い、民族楽器なのだろうか、あまり馴染みのない打楽器の奏者が出てきて、一緒に演奏する。その構成が続き、今度はシンセのストリングスが入る。タイムテーブルが進めば進むほど、楽器が増えていくという構成らしい。音も壮大になって行き、会場も高まって行く。結局、彼が出てきたのは最後の一曲だった。打楽器とシンセが退場し、彼がバイオリンを持って入って来る。いつも通りのスーツ姿だった。彼の構え方は、左手に弓。

左利き用のバイオリンを、構えていた。

肺いっぱいに息を吸い込んだ。身体が期待感で膨張する。しばらく吐くことが出来ずに、唾だけを飲み込む。やっぱり彼は、そのつもりで呼んでくれたのだ。胸がいっぱいになる、という表現をよく使うが、果たして、この実感がそれのことか。

彼は少しだけ客席に目を遣る。ここにいることを知らせたくて必死に視線を送るが、気がついたかどうかはわからない。少なくとも、表情は全く変わらず、ほとんど感情は浮かんでいなかった。緊張しているようにも見えた。いよいよ、その音が鳴らされる。

曲はピアノから始まる。
低音を中心にしたシンプルなイントロ。そのままAメロにはいり、彼は微動だにしない。Bメロとの間の短い間奏で、急にバイオリンが鳴り出す。予備動作がほとんどなく始まったので、ちょっと息を呑んでしまう。バイオリンは、ピアノと同じ音階をなぞる。音が厚みを増す。

あぁ、違う。私はすぐにわかる。何がどう違う?私はバイオリンに意識を集中させる。目は閉じないで、彼の立ち姿から離さない。

Bメロでは、バイオリンは同じ一音を繰り返す。ピアノの低音のスタッカートを繰り返すように。ここに辿り着くまでの3日間のうちに、布団の中で叩き込まれた記憶の中の倍音は、今ここで少しだけ形を変えて頭に流れ込んでくる。記憶が刷新される。どのように。何がどう違う。右脳と左脳をフルに使って、私はその差異の形を正確に取り出そうとする。

サビに入ると、バイオリンは独自のメロディを奏で始めた。力強いボーカルの声の裏で、バイオリンの音は不安定に揺らぎ、音階は大きく上下する。ひとつの音の中に、強弱と高低が立体的に変化する。音が膨らみ、それに合わせて弦が張り詰めるように高まり、またしぼむ。音が回る。会場の隅々までを震わせながら、回転し、満たしてゆく。

音の入り方と消え方が違うのだ。右の音とは歴然と。
右のバイオリンが1から100までの音量を1秒で駆け抜けるとしたら、左は0.1から120までを、0.5秒で駆け抜ける感じ。
音がないところからのふくらみかたが急激で、なめらかだ。音の緩急で頬を張り飛ばされたみたいに、首がぐわんと回った。彼の左腕が、音量の増幅に合わせて勢いよく弓をひき、その重力が遅れてやってくる。張り飛ばされてから、衝撃が来る。そのズレが心地よい。
そしてそのズレが、次の音に向かって身体を揺さぶった。

彼は全く上の空ではなく、音の渦中にいた。目は軽く伏せられ、上半身がピアノに合わせてしなやかに踊り、時にバイオリンなど持っていないのではと思わせるほどだった。自然にそうなる部分と、そうであって欲しいという願望がないまぜになって、彼を過剰に没入させているようにも見えた。
右のバイオリンを演奏している間ずっと、本当はこうではない、と体のどこかが頑なに強張っていた彼。であれば、左を演奏している自分はどこまでも自由であるはずだ。そうであって欲しい。そうでなければ、報われないじゃないか。自分で自分を鼓舞し、それで自分を確からしめようとしているのかもしれない。

ほとばしる音の疾走から、少し遅れてやってくる衝撃の方に自分の身体を合わせて、音に身をまかせた。バタフライを思い出した。水の抵抗で、自分が思っているより少し遅れて身体がついてくるようだ。ライブハウスで脳内バタフライを泳ぎながら、私は私と同じように、ノックアウトされている人を見つけた。

その女性は苦しいような、喜悦のような表情を浮かべて、一心に身体に音を受けていた。パンツスーツにショートヘアで、口を半開きにして、首はすっかりぐにゃぐにゃで、音の、なすがままだった。その人が感じているものはほとんど、快楽に近いのではないかと感じた。

私はすっと、現実に引き戻される。
これが、彼の母親なのかもしれないと思い至る。彼は与えられた左に反抗して、右を選んだ。そしてまたいま、左を選ぶ。母親が仕掛けるままに、覚醒させられたのかもしれない。そんな思いつきがよぎってしまう。この悦楽の表情を見てしまうと、獲物が狙い通りに罠にかかったときの、猛獣の眼差しが連想され。

反抗の反抗は、従属であるか。そうでない、決してそうでは。

私は祈るような気持ちで視線を引き剥がし、彼に目を向ける。曲は、大サビ前の間奏に差し掛かっていた。

ピアノはバッキングに徹する。
バイオリンのソロだ。
弓がステージの奥の方に向かって流れ星の速さで押し込まれ、舞台に飛び乗るかのような、小気味のよい音がキラリと走る。

弓の動きが小刻みになっていき、音の階段を上ったり下りたりしながら徐々に上り詰めていく。

脳内に流星群が広がる。
真っ暗な夜空で、真っ逆さまに落ちながら光る。音のピークでひときわ大きな閃光を放つ。光はためらいなく消える。彼の弓は確かに、重力のままに落下しているような瞬間があった。利き腕で、さぞかし思い通りに力が入るのだろうと思ったが、無駄な力は全く入っていない。思い通りに力が抜けるのかもしれなかった。しかし指先まで丁寧に関節が動き、なおかつ機敏だ。全く音が途切れることなく揺らぎ続けているかと思えば、急に静動がはっきりする。
音の階段は狭くなったり広くなったりする。その上を彼が、猛スピードで駆けてゆく。急に対空時間が伸びる瞬間があり、気持ちがいい。トムソンガゼルの跳躍を思う。彼のバイオリンが生み出す音が、一瞬だけ時の流れを捻じ曲げる。

大サビ前にワンフレーズだけ2つの楽器がユニゾンになり、ピアノの力強さと共鳴する。そして最後のサビになだれ込んでいった…

私は大きくゆっくりと呼吸した。うっとりとため息をついた、という言い方をしてもよい。息を吐くと同時になんだか目元が潤んで来たな。
私は鼻をすすって、こぼれる前に涙を拭った。泣いている、というこのジェスチャーが私は好きではない。涙や鼻水が垂れたとしても、歯を食いしばって、それらは垂れ流し、嗚咽も漏らさずに泣く。いくら我が身を平然とさせても、それでも漏れるものだけが本当の涙だ、なんて青臭いやせ我慢を好んでいた。でも、泣きそうだから、拭う。それでいいじゃないかと思えた。後ろや隣の人は、この人泣いてる?と思う。あぁそうさ泣いているよ私は。ここじゃなければいつ泣くというのだ。ここまでノックアウトされてよくまだ雑念が湧きますね。こびりつきのひどい自意識にちょっと呆れる。それでもなんだかんだ、涙が湧くのだ。

後奏が終わり、最後の弓が引かれた。会場は拍手と歓声で包まれた。それが特別彼のバイオリンに向いたものかというと、そうでもないような気がした。女性シンガーのファンが、女性シンガーにエールを送っているのだ。私はもちろん、彼に対して惜しみのない拍手を送った。

彼はピタリと止まり、そして目を開けた。彼は自分に向いた足元からの照明を、睨みつけた。演奏の構えを解き、何度か瞬きをして、客席を少し見た。目が合った、と思ったが、そう思った人はこの会場にあと30人はいるだろう。なんでだろう、ライブハウスはそういう風にできている。彼は頭を下げ、鼻の下を人差し指で弾いて、楽器の片付けを始めた。女性シンガーはファンに向けて最後のMC中。アンコール!と誰かが手を叩き、その叫びが会場に浸透して行った。彼が舞台袖に消えた後、ピアノのソロが2曲行われた。

いつの間にか、彼の母親らしき人物はいなくなっていた。

そしてその姿を探して会場を見渡している間に、いつの間にか、プラスチックのコップを二つ持った彼が、隣に立っていた。

応援いただいたら、テンション上がります。嬉しくて、ひとしきり小躍りした後に気合い入れて書きます!