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『地球にちりばめられて(多和田葉子)』を読んで

多和田葉子との出会いは国語の教科書だった。「椎間板ヘルニア」という言葉について掘り下げたエッセイ?みたいな作品が載っていて、何だか変なことを考える人だなあと感じて、私の中で引っかかっていた。それから、「犬婿入り」という小説を読んだと思うのだけれど、もう10年以上前のことでよく覚えていない。

「地球にちりばめられて」は、発売したときからいつか読むんだろうと思っていた作品だが、ようやくここへ来て購入し、あっという間に読了した。自分の中で重要な作家との出会いは、ちゃんと自分でわかるものだな、と私はいま、嬉しい気持ちだ。面白い、と言ってしまっていいのかわからないけれど、どうしようもなく心惹かれる内容だった。心惹かれる「文章」なのか、心惹かれる「物語」なのかもわからず「内容」、ということにいまはしている。無理に言葉にしたくない。わからないのに心惹かれるというのは、最高に興奮するスチュエーションだ。

ちょっとだけ、レヴィ=ストロースの「野生の思考」のことを思い出した。ブリコラージュという考え方。それから構造主義という考え方。(私は哲学のことは全然詳しくないのだが、この本だけは特別で、いつかこの「野生の思考」という本を理解できるようになりたいものだ、と密かに思っている)

あえて内容には触れず、「読後感」を掘り下げた感想を書いてみようと思う。下手にあらすじや要約を入れて、変にわかったつもりになりたくない気分なのだ。そして、インターネットを使って手に入る、あらゆる情報も何も入れたくない気分だ。

それでは前置きが長くなったが、以下感想っぽいもの。

この小説を読んで感じた特別感は、一体どこから来るのだろう。読後感を一言で言うと、強いて言えば「多幸感」というところか。それはつまり幸が多い感じなのだが、幸福ってなんだっけ。と首を傾げながらの幸福だ。

削ぎ落とされている、自由な感じがする、と言うのが多幸感らしきものの正体かな、とは思った。

では一体何が削がれているというのか。装飾のない簡潔な言葉、では言い切れない何かが、削ぎ落とされている気がする。

他の小説にはあって、この小説にはないもの。削がれてしまったもの。それはなんだろう。

正確には、日本語を第一言語として生活の中で利用し、基本的には日本に住んでいる人によって書かれた、いわゆる「日本の小説」には「ある」が、この小説には「ない」ものという気がする。

人物の「キャラ」か。「感情」か。言葉の「くせ」か。「文化」か。
今ひとつしっくりこない。
もしかすると、それは「国籍」なのかもしれない。

言葉は区切るものだ。
「生き物」の中から「動物」を区切り、「哺乳類」/「犬」/「ビーグル」という具合に、モノとモノの間に線を引いて分類をする。

その分類の仕方は言語それぞれであり、人それぞれだ。日本人がストレスや疲労を感じたときに起こる体の背面の詰まりを「肩こり」と呼ぶのに対し、英語では「首」や「背中」のこりだと言い習わしているように、言語によって線の引き方は違う。同じ日本語でも、世代や性別や住んでいる場所によって線の引き方は違う。

この小説は、自分が思っていた、ここだ、という線を自覚させてくれるような感じがする。私の中に無意識にこびりついていることばの線引きを、一旦浮かせてくれる。あるいは、日本語に使役されていた部分を呼び覚まし、この私が日本語を使うのだ、という気持ちがふつふつと湧き上がる。それは例えば、今まで剣に振り回されていたのが、急に使い方のコツを掴んで自由に剣を扱えるようになるような、そんな気持ち良さがある。それが多幸感らしき後味の正体かもしれない。

私の中に根付く、モノとモノの間に存在する線を自覚させ、慣れすぎて見えなくなっていたものを目の前に現してくれるのがこの小説の魔力。それをして、「言葉の国籍を抜かれる」なんていう、ちょっと気負った言い方をしてみることも出来るかもしれない。

それにしても、あんまり感覚的に書きすぎて、読んでくださっている人にこの小説の魅力がちっとも伝わっていないような気がしてきたので、少しだけ内容のことを書こうと思う。

この物語の中には「パンスカ」という言語が出て来る。この言語は、主人公が作ったお手製の言語だ。汎用性のある、スカンジナビア周辺の地域で通じる言語で、「汎」と「スカ」をとって「パンスカ」。移民である彼女が、3つの土地で覚えた言語を混ぜ合わせて、自然と形成されていった、「通り過ぎる風景がすべて混ざり合った風のような言葉」。

例えばパンスカにかかると、「わたしの紙芝居の夢は壮大だけれど、紙芝居屋としてのキャリアはないに等しいのです」という文章は以下のようになる。

「わたしの紙芝居の夢は巨人。紙芝居屋としてのキャリアはネズミ」

「巨人」は大きなものすべてに使える表現で、「ネズミ」は小さなものすべてに使える表現として話されている。

物理的な大きさ、壮大さ、数の多さ、広さ、膨大さ、距離の遠さ、規模…なんでも使える。bigもwideもlongも全部、「巨人」でカバーできる。

それがパンスカの特徴なのだ。
作者の言葉を借りれば、「根源的で多義的な単語」を駆使することでより多くの人に伝わる最大公約数の共通点を見出し、「伝わる」ことを第一優先に作られた超実用的な言葉。

パンスカは、「どこ」で話されているかを飛び越えて、「だれ」に話しているかが重要なのだと伝えている気がする。もっといえば、今目の前にいる「あなた」に伝わるかどうか。そのためには、「あなた」の言語を勉強することはもはや重要ではない。概念をどれだけ自由に飛躍させて、伝えようという気持ちを手放さずにいられるか。

このパンスカという言語そのものの特徴が、小説全体の特徴と言ってもいいかもしれない。この小説全体に満ちている「言葉の国籍を抜かれる」感は、今まで味わったことのない不思議な感じだ。特にひとつの国だけで生きてきた私のような人間には、なかなか体験出来る感覚ではない。不安と自由がないまぜになった、何にも変えがたい体験だった。

きっとしばらく多和田葉子にハマるなあ。
そう直感している。


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