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「一人称単数」村上春樹

村上春樹の「一人称単数」を今更ながら読んだ。
いよいよ新作が出るというのにまだ本棚で眠っていたことを思い出し、開いてみることにした。

正直に言えば、多崎つくる以降、ちょっとした違和感のようなものがあって、それは小説自体の変化なのか私自身の変化なのかなんとも微妙なところだったのだけど、この本を読んでみると、「小説の変化のことはよくわからないけれど、少なくとも自分自身は変化している」と思えた。

この作品は、

胸が焼けるような、どうしようもないけれどどうしても捨てられない、人生の中で重要な熱源になってしまうような心の動き

のようなものから、ある程度の距離を経た人に届く小説だと思う。
この類の心の動きを胸の奥にはっきりとしまいこんでおくことは、結構苦しいことだ。
そしてきっと、私自身もその苦しさをあえて捨てなかったひとりと言えそうう。

それでも、どうやったってその時からは離れ続けることになる。
何度焼き直したって、毎日新しくおこる色々な出来事は少しずつ過去を相対的なものにしていくし、経験されたことが増えていけば、客観性も培われる。

あの反復不能な絶対的かがやきは、完全に消えはしないとしても、だんだん形のようなものが与えられたり、ほかの出来事との距離感を把握出来るようになって、混沌から脱して部屋のような場所に収容されるのではないか。

そして、その部屋を開けることで他の雑多なことと混ぜ合わされてしまうことが怖くて、かがやきを部屋の中に閉じ込めることになる。
それを守るためには、あの時の形のままそっと置いておいて、たまに近くまで行って眺めるくらいにしておいた方にいいように思える。

でもこの小説は、そんな風に、ただ輝きを回顧するものではない。
あの時は青春だったよね〜というような、情熱を懐かしむものでは。
だからと言って、その部屋の中に入って、あの頃に戻れるわけでもなくて。
なんと言ったらいいのだろう。

過去に戻るのではなく、世界がかつてこう見えていた、という枠組みだけをフラッシュバックしてくれる感じ、とでも言うのだろうか。

かつて世界は、説明不能な出来事も、夢と現実の境目も曖昧で、どのように成り立っているのかもよくわからず、ただ、見えたものをそのまま享受するしかない、いわば浴びるようなものだった。
言葉の一つ一つがひどく重たく響いて、心は簡単に歓喜したり絶望したりした。
夕暮れや暁はいつでも特別で、いつもどこか別の場所を目指していて、世界の外側は本当にすぐそばにあった。

部屋がまだ部屋としての形を決められていなかった頃の、部屋に収容される以前の心の形。そんなものを、星座が胸の中に光るみたいに教えてくれるような気がする。

それはもう、どこにも残っていなかったはずのもので、どれをどの順番で繋いだらいいのかわからない点つなぎのように不親切なものだが、それでも確実に瞬くのがわかる。
三等星だか五等星だかの暗く遠い、しかし世界が未分化だった頃に光っていた星のまたたき、混沌の輪郭を呼び起こしてくれる、そんな短編集のように思った。



(執筆時間35分+あくる日の直し15分)

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